研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

とある爺の追憶

 今日、こんなことをつぶやきました。

(-13)というのは、終戦から13年前に生まれた、という意味です。

 祖父は実は僕の家の近くに住んでるんですけど、あんまり話をしないんですよ。*1だから今日聞いた話はすごく興味深かったです。

 その話のメモを下に貼っておきます。ぜひ読んでください。そして、皆さんの周りに戦争経験者がいたら、そのひとに是非戦争の話を聞いてみてくださいね。

 

 

※文章中の「少年」は祖父のことです

広島県出身の祖父に戦争の話を聞いたので、その備忘録。

 

 当時13歳で、中学校に通っていた。

 自宅はでかい畑と山林を持っていて、小作農を雇っていた。

 8月6日の8時15分、中学に向かう汽車に乗っていたところ、山脈の向こう側(広島市)で何かがピカッと光ったのを目撃。「雷か何か?」と思っていたらしい。

 当時その中学に、ナントカっていう映画の撮影が来ていて、その俳優とピンポン(卓球)をやったらしい。

 原爆のことを知ったのはその下校中。汽車から、なにやら焼けただれた鉄兜を被った人たちが下車してきて、「映画の撮影か何か?」と少年が尋ねたところ、「馬鹿もん、広島のことを知らんのか!」と言われた。そこで原爆のことを知った。

 少年の家は広く、たまに軍人に飯を出して寝泊りさせたりもしていた。原爆投下後は「青年団」という、被害処理をする男たちが広島市に向かったが、彼らは何日たっても帰ってこなかったという。放射線に汚染されたのか。

 少年の家は爆心地からは汽車で1時間ほどかかるので、原爆の悲惨な状況を知ったのは、戦争が終わってからだという。新聞は、日本が不利な状況に陥ったことは書かないのだった。軍の「大本営発表」にあったことしか記事に出来なかった。同様の理由で、9日の長崎原爆投下のことも、戦後に知ったらしい。

 少年の家には軍人がたびたび泊まっていた。そんななかで、中国(当時は支那と呼んでいた)に行ったという若い軍人が、少年の父親と話しをしていた。軍人は、中国人に穴を掘らせ、そのあと中国人の首を切って蹴とばし、埋めていたらしい。そのとき首を切りきってしまうのではなく、首の皮1枚残すのだそうだ。そのような行為は、戦争で沢山敵を殺した、その報酬として与えられた権利なのだそうだ。その話を聞き、少年は「そんなことして何の意味があるのか」と疑問に思っていたという。

 そのように少年は戦争自体に疑問を感じていた。だがそんなことを家族や友達と話すわけにはいかなかった。学校でも戦争は正しいと教えられていたし、もし戦争を否定的に捉えていると思われる発言をすると、特高警察に捕まってしまうからだ。

 終戦の日玉音放送が流れた時間帯に、少年は教室で「軍人勅諭」を書いていた。宿題だったのだがやっていなくて、体育の授業をさぼって書いていた。「同じことを何回も何回も書かなくちゃいけなかった」という。そんなとき、担任の先生が教室に入ってきて言った。もう書く必要はない、と。どういうことだ、と聞くと、戦争は終わったという。

 内心ホッとしていたが、口にはしなかった。

 家に帰ると、電灯に被せていた黒いカバーを外した。本当はこんなに明るかったのか……と驚いた。ちなみに少年の住む地域は田舎で爆弾が落とされることはなかったが、飛行機が機銃で攻撃してくることはあったらしい。

 翌日学校では通常通り授業が行われた。戦争終結についての話は誰もしなかった。先生もそれについては一切触れなかった。戦争を賛美するようなことは言わなくなった。

 だれもが、内心では終戦を喜んでいたのだろう――少年はそう思った。

 学校には、以前から傲慢な教師がいたのだが、8月15日を境にすっかり気が弱くなってしまった。生徒たちは今までの仕返しに教師をいじめようとしたが、少年は参加しなかった。

 少年の家族は女性が多く、アメリカ兵が近くの国道をジープで走ってくるときなどはかなり恐れていた(乱暴されるのではないか)のだが、別に何事もなかった。

 マッカーサー来日後は農地改革が行われ、少年の家は戦時中よりも苦しくなってしまった。少年の祖母が神社の出身で、着物を多く持っていたため、それを売って食料を調達していたらしい。

 

以上。 

 

 

誰も戦争を教えてくれなかった

誰も戦争を教えてくれなかった

*1:耳遠いから大声出さなくちゃいけなくて、めんどくさいんですよね。