研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

紙の新聞を読む意味って?/純平面性について

先日、Newspicksでこんな記事を見た。

スマホでニュースばかり読んでいると、バカになる?

主題は、「スマホニュースは消費することを前提に作られており、自分の頭で考えることを必要とさせない」というものでした。まあそんなに長い主張文じゃないので読んでみてください。

Newspicksのピッカーはホリエモンを筆頭に、この手のレガシーメディアをすごく嫌っているわけで、まあ僕もスマホニュースアプリができてから新聞も読まなくなっちゃったんですが……

ここで敢えて、今、紙で活字を読む意味を考えてみようと思います。とりわけ新聞で。

 

参照した記事によれば、一方ではスマホニュースはどれだけシェアされたかという消費欲求によってのみ記事のランク付けがされる。他方新聞ではページワンエディターと呼ばれる紙面構成担当のお陰で大局を掴みやすい。ということらしいです。

 

しかし僕は、記事の重要度による構成ではなく、記事そのものが平面的に配置されている構造自体に意味があると考えます。どういうことだろうか。

 

ここで、僕の中1の時の話を引用します。国語の先生はかなり高齢の人で、紙の辞書を愛用していました。別に電子辞書を嫌っているわけじゃないらしいのですが、その先生は紙辞書ならではの楽しさを授業で説明していました。

語句を調べようと頁をめくっている間に、ふと気になった語句を見つける。手を止めて読む。すると、その近くにある語句も気になる。読む。その語句の説明文に使われている語句が難しい。引いてみる。そのうち、最初に調べようとしていた語句を忘れる。そういう知識欲を刺激する、あるいは寄り道を誘発する仕組みが面白い。

これは辞書の話ですが、まったくそのまま新聞に適用して問題ないでしょう。

 

つまり、ラジオ欄をチェックしようと頁をめくっている時に、何やら怪しげな単語を見つける。なに、河川敷にスマホ? うん、読んでみよう。……えっ、片山のゆうちゃんが!?……といった具合に。

さっき僕は記事が平面的に配置されていると言いましたが、それは記事の本文そのものがそのまま広げられている、という意味でした。

これを東浩紀さんの「超平面性」を真似て、「純平面性」とでも言いましょうかね()

とにかく僕の考えたのはそういうことです。

釣りタイトルとかって、ネット特有ですからね。記事の全容がクリックという手続き無しに読者の眼に流入してくるシステムは、やっぱり新聞にしかできないですよね。その点新聞なら、釣りもなにもないわけですから。むしろ自分の純粋な欲求に一致した記事を探せるかもしれない。

僕が注目したのは構造です。構成ではない。