研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

黙祷の意味

黙祷したんですけど、1分間、いったいこの行為に何の意味があるのかを考えていました。その1分間の思考の旅を綴ろうと思います。

 

 目を瞑ると周囲の喧騒は波が引いたように消え去り、鳥の羽音とセミの鳴き声と、事態を理解できない幼児の「なんで? なんで?」という困惑の声だけが世界を支配していた。ような気がした。

 正午の太陽がじりじりと皮膚を焦がし、赤外線が身体の内側を熱く煮やす。あれ? オレは暑さに耐える修行をしているのだっけ? 違う違う、戦没者に弔意を表明しているのだった。……しかしそのために黙って俯く必要があるのだろうか。しかもみんな揃って同時に。意味不明だ。

 しかしこうしてやってみるとなかなかの厳かさがある。さっきの幼児も大人しくなった。気のせいか鳥や蝉も空気に飲まれているような気がする。オレの中のなにかも高まってきた。よく分からんけど死んだ人間についていろいろ考える(ここらへんの詳細は省略)。

 そこでハッとした。本来オレはこんなことに思いを馳せるために神社に来たのではない。けれども実際このように、ある意味まっとうな参拝客として振る舞う結果となった。最近ニコ動で見た動画で、東浩紀が「形式が実質を規定することってのが世の中にはある」と言っていたことを思い出す。そうか、これだ。同時にニコ動で有名な「教祖様」が「形から入るの、大事だよねえ~」と仰られていたことも芋づる式に引き出された。

 

 つまりそういうことです。いずれにせよまずやってみて思考することが大事なのではないでしょうか。