研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

初めての『ハルヒ』の体験とそのタイミング

僕がライトノベルを初めて読んだのは中1の時の『涼宮ハルヒの憂鬱』で、それ以降ハルヒシリーズに傾倒し、アニメDVDを続けざまにレンタルしたりしていました。けれども今日ではラノベもアニメもあんまり見なくなり、というか考えてみれば中高生の時でさえラノベハルヒバッカーノ!しか読んでいませんでした。

 

最近『イリヤの空、UFOの夏』を読みました。中学校の新聞部に所属している主人公が先輩主導の「UFO探し」に付き合うことになるのですが何も見つからず、夏休み最終日の夜に学校のプールに入り込んだところ、腕に金属の玉が付いている謎の女の子(イリヤ)と出会うというボーイミーツガールの本流のような作品です。全4巻なのですが1巻を読んだ時点ではまだ物語は大きく動いていません。今後が楽しみです、といったところで僕はハルヒのとある記述を思い出すのです。

 

というのは、谷川流が『涼宮ハルヒの憤慨』p.298で言っていたことです。
「(……)重要なポイントはやはりタイミングですね。まさにあの時、あのタイミングで読んだからこそ問答無用に感銘を受けたり影響を及ぼされたりしたのであって、今初めて読んだのだとしたら、きっと感銘も影響も別の方角を向くことになったでしょう。」

 

イリヤ』は中学生が主人公の話です。これを大学生の僕が読むのと中学生の僕が読むのとでは感じ方が違うんじゃないか。そんな今更どうしようもないことを考えてしまいます。

 

そういう意味で僕が中学生のときにハルヒに魅了されたのは運が良すぎました。『憂鬱』は主人公とハルヒの高校入学から物語が始まります。中学生が未だ見ぬ高校生活に過剰な期待に身を膨らませるのにはとてもいい小説だと言えるでしょう。

 

ところで僕の考えではハルヒを読んだ人は3つに分けられます。1つ目は端的にオタク文化の原体験として読んだ人(僕はこれに含まれる)。2つ目はライトノベルの寄せ集めであるハルヒの設定をアイロニーとして読み取る人(東浩紀など)。3つ目はアイロニーであることを理解しながらもそれを超越してオタクの快感原則に基づいて淡々と消費する人(「動物化」したオタク)。

 

そして今朝、なんとなく『憂鬱』を一冊だけ読み返してみたのですが、複雑な気分でしたね。2つ目と3つ目が複合したような。ただそれよりも懐かしい気持ちの方が大きかったです。初めて読んだ時の衝撃はよく覚えています。ユーモアのある比喩や、滔々と自己の内面を語るキョンの一人称、「世界五分前仮説」「情報統合思念体」といったSF要素、キャラクターが地の文に応答するという手法(これは谷川流独特の奇妙な文体なのですが)など、実は小説としての側面に強烈に惹かれていました。確か初めて読んだ一人称小説はハルヒでした。それだけに僕はいわゆるオタク文化に手を出してしまったという熱っぽい興奮と共に、何か今後の僕の感性を左右されるような、不思議な手触りを覚えました。