自分の気持ちや考えていることを明瞭に言語化して伝えたいという欲望が以前からあります。人と話す時や文章を書く時に「これちゃんと伝わってるかな?」という疑問が常に付きまとうのです。
口下手なのでうまく話せないと言うのならともかく文字ベースでさえ上手く伝える自信がないというのは困ったものです。単純に語彙が無いのか、読書量が足りないのか。それ以前に思考を論理的に、明晰に、クリアに、整理するところで躓いているという可能性さえある。
僕がブログを始めた理由の一つに作文の練習のためというのがあります(なのでブログの説明欄には「とりとめのない思考を無理に言語化した記録」と書きました)。
大学に入ってから社会科学系の本を読んだりバイトを始めたりして愚かにもさまざまなことを考えだしました。しかしそれを話す友達も特におらず、ぽややんとしたまま内容が意識の外に吹き飛んでいく。そういうのに耐えられず文字に書き起こそうと思いました。口ごもるのではなくできるだけ正確に転写することを目標に頑張ってきました。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』とそれに影響を受けたウィーン学派以降、分析哲学という学問が誕生しました。その学問を研究する人たちは哲学を思考の道具として扱うそうです。つまり物事を筋道建てて考えるために哲学っぽいことをしているのだそうです。
『論理哲学論考』は最近読みましたが、確かにそういう感じは受けました。彼の仕事はたいへん素晴らしいものだと思います。
要するに分析哲学においては、世界を分かりやすく伝えることが目的とされているわけですが、僕はここで日本のジャーナリスト・池上彰を想起します。
彼はニュース解説者として広く親しまれています。また、自らの政治的主張をしないということで知られています。実際ネットメディアのインタビューなどでもそう言っています。それはともかく、池上彰は世界を分かりやすく伝えるおじさんとして活躍しています。
それは上述した僕の欲望とかなり似ています。自分の考えていることを明瞭にすることと、世界で起きていることを分かりやすく伝えること。だから僕は池上彰のような人がもっと増えて欲しいし、そういう人は尊敬に値すると思っています。
ただ最近は本当にそれだけでいいのか? と疑問を呈しています。つまり、自分の主張を置いておいて、自分以外のことについてばかり語っていてもいいのかと。それは自分の価値にコミットメントすることになるのだろうか?
カントは定言命法・義務・自律といった概念を提出し、正義や道徳について考えました。それは突き詰めれば「自分は何のために生きているのか」を考えるということに繋がります。
それで言うと僕は何をしたいんだろう? 思考を明晰にしたい。正確に言語化したい。しかし、それで何をしたいんだろう? 他人が考えている言葉にならない思いを言葉に直してあげる仕事というのはきっと喜ばれるでしょう。「君が言いたいのはこういうことだね。つまり……」という風に、より洗練された形に落とし込む。
でもそれは自分の価値にコミットメントしたことにはならない。霧を払い、研ぎ澄ませるという能力を手に入れたとして、僕はそれで何をすればいいのか。