最近、一人でレイトショーを見に行くことが趣味になりつつある僕ですが、『ゴーン・ガール』は普段積極的には観ないサスペンス映画で、なるほどこういうジャンルの作品もおもしろいな、と新たな自分を見つけることができました。
大まかなあらすじとしては妻にはめられた夫が無実の罪を被せられ、マスメディア批判などに晒される中で、徐々に真実が明らかになっていくというものです。ちなみにレーティングがR15で、わりと目を覆いたくなるようなシーンもあります。
サスペンスやミステリーといえば、僕は東野圭吾の小説などしか読まないのですが、彼のストーリーは、基本的には事件発生から終結までを一直線に描くかたちになっています。主人公が捜査を行うなかで、新事実が次々と立ち上がり、事件の様態が上書きされていきます。
一方、『ゴーン・ガール』は時間が慌ただしく前後します。男と女の結婚前の話、事件発生後の男の話、事件発生後の女の話、と3つのストーリーの断片が監督の手によって(監督のアイデアなのかどうかはわかりませんがめんどうなので監督としておきます)恣意的に並べられているのです。
といっても、こういった形式の映画はほかにもたくさんあります。たとえばクリストファー・ノーランの『メメント』はストーリーの最後のシーンから少しずつ時間が巻き戻っていき(小説で言うならば7章→6章→5章……のように)、さらにその合間に過去編を挿入するというきわめてアクロバットな構成になっています。こういった観客をある種惑わせるようなジグザグした、あるいはがちゃがちゃしたストーリーテリングは、映画だからこそできる手法です。
小説でやろうとなると、いびつな読み方にならざるをえません。もちろん『九十九十九』など、過激な試みをした小説は存在します。ただ僕は、映画の「強引な進行」性、つまり小説は自分のペースで読んだり戻ったりできるけれど、映画は一方的に進行される物語をみていくしかない、という点に違いを見いだします。
映画は徹底的に監督の術のもとで観るしかない。物語の構成、音響や視覚効果など、観客のわたしたちをとりまくすべてが計算されているわけです。そのようななかで、計算された物語の構成そのものに意味がある映画……すなわちメメントやゴーンガールのような作品に、僕はたいへん映画らしさを感じるのです。