研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

百円の恋と大学の飲み会

『百円の恋』を観た。32歳ニートの女性が百円ショップでバイトを始め、一人立ちする話だ。最終的にはボクシングドラマになる。劇場のテアトル新宿は初めて行ったのだが、昔の映画館っぽくていい雰囲気があった。最近はシネコンしか行かないし。コマ劇を思い出す。わりといい映画だったと思う。

   ババアが百円ショップを強盗する場面で男バイトが「まじっすか!? まじっすか!?」って言いながら冷静にレジから金を出していたのがおもしろかった。場内の人たちもみな笑っていた。こういうのは僕が普段観ているSFハリウッド映画じゃみられない光景だ。ああ、僕は邦画を観ているんだなあと思った。
   僕は邦画は殆ど観ないけど、新海誠監督がTwitterで観たとつぶやいていたので観た。狭い畳の部屋での生活や豆腐屋、居酒屋のテレビで野球観戦する風景などは決して洋画ではみられない。
   そういうシーンの断片から、日本的映画らしさを感じた。昔ながらの映画館で邦画を観ているなあというメタ消費に終始してしまった感は否めない。

 飲み会について。サークルの飲み会は、先輩方が調子に乗って僕に性癖の公開を迫ったりする。僕は適当に受け流す。過度な強要はされないが、とりあえずなにがあっても固辞しようと思う。理由は2つある。
   一つは恥ずかしいから。僕が「いやー僕おねショタが大好物で、手コキ授乳とか組み合わさると無上の喜びを感じますね。最近は耳舐め音声にはまっていて、あれ聞きながら乳首とかいじるとたいへん気持ちが」とか言ったとして、それで得られるのは恥ずかしいことを共有した際に発生する連帯感、共同感のようなものだと思うけど、それは性癖の公開を必ずしも必要とするものではない。べつの話題で連帯感、共同感を獲得することは十分可能だと思う。
   2つめは他の男性と性的シコウにまつわる話題を共有したくないから。生理的な話題ならいいけど、性衝動に関する話題だと、他の男性の吃立する男根のイメージを押しつけられているような気がして、きもちわるい。つまり「自分が勃起する条件」とかを共有しあうのって、きもちわるい。したがって話さない。

   ところでこないだ来年から始まるゼミの飲み会があり、参加した。結論から言うと目からウロコだった。サークルとは雰囲気が違いすぎて。隣の女子が僕に積極的にビールを注ぎ、鍋を取りわける際に「嫌いなものとかある?」と訊かれた。僕のことを異性として気になっているから好意的な態度を取っているとかではむろんなく、みなに対して同様に振舞っていたのだ。これが飲み会の本当の姿なのか、と内心驚いた。
   サークル飲みに殆ど女子が来ないというのもあるが、いかんせん社会経験というか、そもそも飲み会参戦率そのものが僕は低すぎた。
   というわけで飲み会にもさまざまなセカイが存在することを知った。僕はそういうセカイを肯定も否定もしない。存在して存続しているということは、それなりに意味があるんだろうとは思っている。その意味をこれから探っていこうと思う。

   ……となにやら深そうなことを書いたけど、実際飲み会進行中は「いや〜ついに俺も本当の飲み会っぽいものに参加しちゃったか〜」などと馬鹿丸出しの感想を抱いていた。すなわち、飲み会に参加している自分自身のことを考えていた。
   ここで上述の『百円の恋』の感想と通じる。どちらにしても、消費する自分の姿をメタに消費していた。結局僕は未熟なばかりに、目の前にある楽しいものを素直にベタに受け取れていない。