『父親たちの星条旗』を見ました。硫黄島に星条旗を立てた6人の海軍兵を軍事国債キャンペーンのために称揚したアメリカの欺瞞が描かれていて面白かったです。硫黄島上陸シーンは『プライベートライアン』のノルマンディー上陸シーンに引けをとらない迫力でした。本作と対をなす『硫黄島からの手紙』と同様に戦場を白黒っぽくするという演出をしており、銃後のアメリカ本土との対比が鮮やかに描かれていました。銃撃戦が好きな映画ファンも楽しめる映像だと思います。
ところで戦争映画を見る度に思うのは、「でも実際は戦争中だって天気のいい日は普通に天気が良かったんだろうな」ということです。この映画もそうですが、戦争映画って結構暗いんですよね。それは雰囲気がどうとかではなく、画面彩度のレベルで暗いわけです。しかも昔のフィルムとか写真って今より鮮やかじゃないから、実際に本当に歴史的に「戦争時は世界が暗かった」という認識が無意識に共有されているわけです。
しかし実際はそうじゃないだろうと。現代の東京も戦時中の硫黄島も、空の明るさとかは変わらないはずですよね。そこを映し出す戦争映画ってあるのかなあとか思いました。
で、BD特典のインタヴューを見ると、なんと戦場のほとんどはCGで作られていたんだそうです。撮影は硫黄島と地形が似ているアイスランドで行ったのですが、たとえば上陸シーンでは上陸機以外の艦隊はすべてCGで作られ、海もCG、兵隊も一部のシーンではCGだったそうです。というか硫黄島戦では人間以外の背景はすべてCGで合成らしく、演出会社の人は画面に写っているキャストを全員トリミングしてCGの背景を合成するという仕事を何ヶ月もやっていたのだとか。どんだけ手間かかってんだって感じです。人間のCGもmassiveとかいうソフトを用いるとアルゴリズムによって人間的な動作を大量に自動生成することができるのだそうです。やばいですね。
ちなみに僕は「ここCGで作ってんなー」とかは見てる最中全く気づきませんでした。本当にびっくりしましたね。銃撃や砲撃のエフェクトも全然違和感なく、大掛かりな準備をしているのだと思っていました。まああんなにたくさんの人々や艦隊をすべて実写で撮影するというのは大変なコストですからね、やむを得ないのでしょうか。同じくクリント・イーストウッドの『アメリカンスナイパー』もあらゆるシーンがCGだったんでしょうね。あの砂嵐とか。しかしそうするともはや映画ってなんなんでしょう?
去年の12月のLifeでデータ的実存って話があったんですが、映画におけるCGの話もそれに繋げられそうです。CG技術は『トランスフォーマー』みたいな非現実を出力するための営みだと思われていたのが、実は現実を現実にするためにも使われていると。ラブライブで言えば、声優の息遣いをデータに入力→出力するためのテクノロジー(ハイレゾ)。
虚構をリアルっぽくするのではなく、虚構を支える現実までもをリアルに映しだすということ。それが映画で言えば実写映画にCGをふんだんに仕込むということであり、アニソンで言えばキャラクターのその向こう側の声優の息遣いをWAVEファイルに吹き込むということなんですね。
クリストファー・ノーランがユリイカのインタヴューでこんなことを言っていました。「CGを使う理由は2つある。ひとつはあくまで現実を補うため、もう一つは現実じゃ絶対に作れない迫力のあるスペクタクルを作るため」じゃあこの映画はどちらでしょうか? どっちでもないんですよね。補足的手段でもなく、トランスフォーマー的手段でもない。現実を代補するための、もっと言えば虚構(映画)を支える現実(撮影環境)を代補するための手段としてのCG。
実存をデータによって代補するという企てが成功し続けている今、そこらへんの天秤(リアルと虚構)について考えなおしてみる必要があるのかもしれません。