研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

すべてがキモくなる ニコ動のコメントから

 ニコニコ動画のユーザー同士が動画のコメントによってコミュニケーションを取ろうと企てている様をたまに見かけます。

「コメ番1023 わかる」

とか。

 言うまでもなくこんなメッセージ届いてません。番号で自分のコメントがアイデンティファイされていることに自覚的な人なんていないし、そもそも一度コメントした動画を何度も見返す保証もあるわけないです。とにかくこんな呼びかけ、届いてるわけ無いんですよね。

 ぼくはこういうコメントを見ると、素直にコンテンツを楽しむだけでは飽きたらず、同好の士との連帯を無意味に求める姿を見てしまいます。「しまいます」と書いたのは、僕がそれにやや否定的な立場をとっているからです。

『幸腹グラフィティ』のテーマは「料理は好きな人と食べないと美味しくない」ですが、僕はその主張にはいまいち賛同できません。だって美味しいものは単に美味しいですからね。「好きな人と食べるともっとおいしい」なら分かるのですが。

 幸腹グラフィティの町子リョウは第1話で、一人で食べる自分の手料理のことを美味しくないと言っているにもかかわらず、森野きりんと一緒に自分の料理を食べたときには目を潤わせ輝かせ、顔面が官能的恍惚に覆われており、それは流石に病的と言っていいぐらいの「連帯信奉」ではないかと思うのです。

 つまり美味しいものは単に美味しく食べれるし、楽しいものは単に楽しめるというのが僕の考えです。で、ニコ動はその条件を明確な形で表象するプラットフォームだと思っていたんですよね。僕がニコ動のアカウントを作った時によく見ていたのは高速マリオで、あれはおもしろいんですけど、コメントも「wwwwwwwwww」とか「うおおおおおおおおおおおおお」とか、魂の叫びみたいなものばかりでうめつくされていました。それは言ってみれば、みな目の前のコンテンツに対して徹底的に誠実に向き合っていたってことなんですよね。

 それがいまではコメントが他のコメントに言及(賛同であれ批判であれ)することが常態化していて、お前は動画を見たいのか、コメントを検閲したいのか、どちらなのかと思うような馬鹿コメントが跋扈しています。まるで映画館で映画を見ている時に隣の友人にあれこれ喋りかける無神経な若者のようです。僕の中では他のコメントへの言及を意味する→や↑などの記号は、偏差値と年齢の低さを一発で明らかにするリトマス試験紙となりました。

 

 

 ……と批判してきましたが、そんな僕自身が最も気持ちの悪い存在であるということもまた悲しいことです。

「○○とか言ってる奴マジでキモい」「←キモいとか言ってる奴が一番きもいってわかってる?w」「キモいとかキモくないとかどうでもいいよ、みんな動画見ようよ……」「コメントで言い争ってんじゃねえよ」「コメント荒れてるな」「みなさん、不快なコメントはNG機能を活用しましょう!」

 この手のコメントは全部気持ち悪いんですよね。

 分かりますか?

 この手のコメント、すなわちコメントに言及するコメントを気持ち悪がってる僕自身が、コメントに言及しているということ。

 とにかくすべてがキモイ。

 だから最近のニコ動のコメントはキモいんですよね。

 そして僕もキモい。

 すべてが無限にキモい。



以前のニコニコの図。コメントというフィルターを通して、ユーザーはストレートに動画というコンテンツにアクセスできる。

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今のニコニコ。コメントはフィルターではなくリフレクターとして機能し、乱反射したコメントにユーザー同士が過敏に反応する。動画へのアクセス経路が失調する。

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