研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「花とアリス」と高校生の感性

 最近高校生の物語を見たりするととにかく懐かしさを覚える。女子高生を外で見かけた時もそうだ。僕の高校は私服校だったから一般的に想像される高校の姿とはちょっと違うけど、しかし卒業した今になって思い返してみるとやっぱり高校は高校である。服装とか関係なく、共学だし、高校らしい高校だった。あの場所から遠く離れて、やっと客観的に見つめることができるようになったと思う。

 

 あと2週間で終わり春休みが終わり、大学3年生になる。大学も折り返しを迎えるのだ。高校時代の感性はもうほとんど失われかけている。それを忘れないうちに残しておきたいという焦りがある。

 

 高2の時、高校生が大学生になった自分と入れ替わりでタイムスリップするという筋書きの小説を書いた。当時は高校生だったから当然大学のことはよくわかっていなかった。でも高校生と大学生の間には大きな隔たりがあるとなんとなく感じていて、それゆえに高校生が大学生になるという設定を考えた。ドラマチックだと思ったのだ。ガラケーを使っていたのがスマホになるという描写もした。住居だって実家から一人暮らしになるという設定だ。

 

 とにかく大学生の生活は、高校とは何もかもがかけ離れていて、一挙に大人びるのだと思っていた。大学生になった今、それほどの飛躍があったとは思わないが、高校生の時の自分をふと思い返してみると、確かに大きく生活スタイルは変わったし、高校生の時には想像できなかった……というか、想像しなかった世界に生きているような気はする。高校生と大学生は大きく違っている、と身を持って理解できる。

 

 高校の時は主人公が高校生の話ばかり書いていた。自分が高校生だから、等身大の自分の感性を文字に転写すれば、それはそれでリアルな高校生の生きる姿を描くことができると踏んでいたのだ。それはおおむね正しかったと思う。今の僕が高校生が主人公の小説を書いたとして、まあまともな形にはなるのかもしれないが、筆のノリというか、その世代の持つ素直な気持ちのようなものが出せないのではないか。

 

 だから僕は大学生が主人公の話を素直に書けばいいのだろう。しかし先にも述べたように、僕は一方では日々大学生らしさを獲得していき、他方では高校生の時の感性を失いかけている。だからいま、あの時書いた小説をふたたび書き直さねばならないのではないかと危惧している。高校と大学の両方の学生の心情を書けるのは今しかないのではないかと。もたもたしていると自分の高校生時代の成分が希釈され、限りなく水に近い何かになってしまいそうなのだ。

 

花とアリス」を見て思ったのはそこらへんについてだ。中学生と高校生の間にはどの程度の変化があったのだろう? むろん大きな変化があるに違いない。だれもがそうだろう。しかし僕はいまいち思い出せない。当時の写真などを子細に観察すれば何かわかるかもしれないが、資料なしで鮮明に思い出すことができない。そういう空気感を「花とアリス」は描き出しているような気がしたのだ。

 

「殺人事件」は教室の謎解きがメインで、二人はそれの解決に向けて共に爆進していたわけだが、「花とアリス」では二人はそれぞれ自分のしたいことをしていく。花は落語をやるし、アリスはモデルをやる。同じ先輩を好きになって関係がギクシャクする。そういう、中学生から高校生にかけての生活の変化が見事に表現されている。これが青年期の感性か、とまだ二十歳で若輩者の僕がしみじみ思っていた。滑稽だ。