研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

自撮り棒の恐怖

昨年の暮れに富士山の近くの忍野八海という世界遺産に指定された場所に行ってきました。世界に認められるぐらいなんだからどんだけすごいところなんだろうと思っていたのですが、実態はただの鯉の泳ぐ池でした。

 

8つ池があるのですが、見物客がいるのはそのうち2,3こで、そのほかの池はひっそりとした川のせせらぎの添え物程度の存在感しかありませんでした。その上8つの池のうち一つは徒歩20分ほど歩かなければいけないところにあり、そこまでいくともはや全く別の観光地――観光地とはいっても人ひとりいなかったわけですが――といった雰囲気さえありました。

 

さて、人が賑やかな土産物屋の近くでは、若い女性たちや中国人観光客などが自撮り棒*1を携え、ここぞというポイントで自分たちのにこやかな笑顔を撮影しています。……カメラを空高く上げて*2

 

 

カメラを上に上げたら、景色映らなくない? 自分らの顔しか映らなくない?

 

そうなんです。観光地で写真撮影といえば、壮麗な景色をバックにみんな並んでピースとかなのに、彼女たちは自分たちの顔しか収めていないのです。

 

通常、スマホのインカメラで自分を撮影する際、

スマホを持ったままシャッターボタンを押すのが難しいので手ぶれする

②腕を目いっぱい伸ばしてもカメラの画角が狭く、周りの景色が入らない

などの障害があります。それを解消するのが自撮り棒でした。自撮り棒の先端にスマホを装着し、手元のボタンを押すことでインカメラのシャッターを切ることができます。

 

人々はお手持ちのスマホを利用し、手軽に画角の広い自撮りを楽しむことができるようになりました。かつてならばそこらへんの暇そうなおじさんとかに撮影をお願いしなくてはならなかったわけですが、パーソナルスペースを守護する結界が強化された現代ではそういうお願いもしづらいですからね。

 

しかしそこで生じたのが先に述べた「お前わざわざ観光しに行ってるのに現地の風景映ってないじゃねーか問題」です。

自撮り棒を持った人々はせっかく自分たちと周りの風景を撮影したいと思っていたのに、なぜか今では自分たちがいかに観光を楽しんでいるかを証明するための写真を撮りたいと思っています。まるで自撮り棒は人々の欲望の流れを指揮するタクトのように……

 

せっかく風景+人物を撮ることができるようになったのに、人物だけを撮るようになってしまった。ツイッターでは顔をアップにして撮った写真を上げて「沖縄~(#^^#)」みたいなのを見ることができます。

それ沖縄の写真というよりお前の写真じゃんみたいな。お前の顔もいいけどそれじゃ沖縄じゃなくて東京でも撮れるじゃんみたいな*3

 

では彼女たちはそのような「自撮り棒の欺瞞」に気付いているのでしょうか? そこらへんは聞いてみないとわからないのですが、それよりもぼくたちが関心を持ちたいのは、なぜそのような欲望のシフトが自然に行われたのかということです。どういうことでしょうか。

 

世界中の景勝地の写真がスマホで検索することで一発で見れるようなこの時代、誰が撮っても同じようなただの風景写真に特別な価値はなくなりました。スマホ世代の若者たちはそのことを痛いぐらいにわかっています。

バスで富士山に行ったとしましょう。誰かが「わー富士山!」とか言ったら、みんな「わー!」って言ったあと、写真を撮りますよね。それってみんな同じ写真なんですよ。みな等価値でただ無個性。それは確かに感動する景色かもしれないけど、SNSでシェアするほど価値があるようなものでもない。

じゃあそれぞれ好きなところでオリジナリティあふれる自分だけの一枚を撮りに行けよとか思うんですが、友達と旅行行って単独行動する奴はけっこう変な奴扱いされるんですよね。

 

では彼女たちはどのようにして個性を獲得するか。その方法が「人の顔を撮ること」なんですね。風景の写真は世界中のどの人間がとっても同じ。けれども現地でみんなで楽しくしている彼女たちの笑顔はインターネットをくまなく探しても決して見つからない。それは「いま、ここ」にしかないものです。それを収めた写真は、オリジナリティがある一枚といってもいいのではないでしょうか。彼女たちはそうして「交換不可能性」を獲得しました。

 

しかしその代わりに失ったのが場所性でした。彼女たちが富士急で楽しんでいる姿は確かに交換不可能なものでしょう。けれども楽しんでいる姿そのものは、ディズニーランドだってカラオケだって同じようなもんです。そこには交換可能性があります。スマホを空高く上げて、上目遣いで目を大きく見せる写真なら富士急でなくても撮れます。

 

そこには観光地における交換不可能性を追求して自撮りという解を得た結果、反対に交換可能性をも獲得してしまったというアイロニカルな二重性がありました。逆方向のベクトルに引き裂かれた私たちはいったいどこまでその矛盾に耐えることができるのでしょうか?

 

*1:前から思っているのですがこの名前ちょっとダサすぎるので「セルフィースティック」とか言えばいいと思うんですけど日本語的に馴染みがなさすぎますよね。「あー! セルフィースティック忘れた(*_*)」「だいじょぶ! うち持ってるから笑」とか、ちょっと想像しづらいですね。

*2:いま大学のベンチでこれ書いてるんですが、ほら、今も僕の横に座っている女の子たちが自撮りをし始めました。「もっと上から撮ろ!」と言っています。こうして背景はますます意味をなくしていく。

*3:なお、ぼくの感覚ではフェイスブックではこの傾向は弱い気がします。フェイスブックは自分自身のアピールというよりも人がどういうステータスを持っていて、どういうところに行ったりしているのかというところを強調しているような気がします。他方でツイッターとかは人の写真を載せてるのが多いような気がします。