研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

俺は就活というものを絶対に許さない

内定が出ました。これにて就職活動終了です。

 

周りを見ると、就活を終えたやつらというのは「いやあ、いっぱい祈られたけどそれはそれでいい経験だったなあ」などと言っています。

 

僕は全くそうは思っていません。

 

「リラックスして受けてください」という言葉に乗せられリラックスしたところ落とされ、普段の自分を捨てて超絶笑顔でいたところ落とされ、オンシャ製品への愛を滔々と語って落とされ、OB訪問でオンシャの社員さんに感銘を受けましたという話をして落とされ、自己紹介をしたら「全然面白くないし興味も惹かれませんね」と言われて負けずに自己PRをしたところ「そうですか」と言われて落とされ、「○○さんは他の学生さんとは違った視点を持っていて面白いね」と言われて落とされ、時間が余ったからという理由で逆質問を5回もさせられて落とされ、「あんたコピーライターとかになったほうがいいんじゃない?」と言われて落とされてきたわけです。

 

面接の嫌なところというのは、自分自身を100%出して落とされるところです。自分はそんなに価値が無い人間なのかと思ってしまいます。自殺する人が出るのも無理はありません。

 

さらに嫌なのは、多くの面接経験者が指摘するように、運の要素が強いところです。悲しいことに、面接官の当たり外れが合否を決定してしまうのです。僕も「もしあのとき3番ブースじゃなくて1番、2番ブースに呼ばれていたら……」と想像すると恐ろしくて呼吸もできません。

 

面接で落ちたのは運が悪かったからであり、面接を通ったのは運が良かったからなのです。

 

この命題はさらなる悲劇を提示します。すなわち、

 

「受かったのに大した理由はない」

 

ということです。

 

内定獲得者は後輩を交えた飲み会で得てして「俺は~~して受かったぜ!」という武勇伝を語ります。

 

それは単なる武勇伝なのですが、就活を控えた後輩の目には「勝利のセオリー」のように映ってしまいます。

 

つまり自分も同じことをすれば受かるんじゃないか、と思ってしまうわけです。

 

しかしそれは間違っています。面接は9割運です。勝利のセオリーなんていうものはありません。先輩はたまたま受かっただけなのです。真に受けてはいけません。

 

面接に受かるというのは、単に運が良かったというだけのことなのです。実力が見られるのは1割ぐらいです。残りの9割はフィーリングです。「なんとなく」なのです。

 

お祈りメールにはたまに「選考理由についてのお問い合わせには一切お答えできません」という文言がついています。あれは落とされた人のことを気遣って理由を明かさないようにしているとかではありません。「なんとなく」落としたからなのです。説明なんかできないわけです。

 

ですので落ちた人はあんまり気を落とさないで欲しいです。別にあなたが無能だったから落としたわけじゃありません。ただ「なんとなく」微妙だったからというだけのことです。むしろ人事の無能ゆえの採用見送りといえます。

 

そして受かった人。むしろ受かった人こそ落胆すべきなのです。なぜならあなたが受かったのも「なんとなく」だからです。別にあなたが有能だったから受かったわけじゃありません。例えば男女比を同程度にするためにとりあえず男子から採ったとか、そういうことです。むしろ人事の無能ゆえの採用といえます。

 

したがって僕が内定をもらったのも大した理由はないのです。これこそが悲劇なのです。

 

「なぜ僕は受かったのか?」

 

これに対する答えはありません。なぜならまったくの運や偶然によって受かったからです。これに答えを求めたいならば、「なぜ僕は僕だったのか?」という疑問に形を変えなければなりません。

 

「なぜ僕は受かったのか→理由はない→内定をもらったのは偶然だ→内定をもらうのは僕でなくてもよかった→なぜ僕でなくてもよかったのに僕だったのか→なぜ僕は僕だったのか」という論理です。

 

しかしそんなことを言われても答えはわかりません。それゆえ面接は恐ろしいのです。

 

だから僕は就活というものを絶対に許しません。いつか必ず、何らかの形で復讐したいと思っています。