今日から2日に1回ぐらいのペースで、本の感想を書いていく。なぜか。理由は2つある。
ひとつは、読書のモチベを上げるためだ。いま、僕はかつてないほどに危機感をもっている。それは、本を読まねばならないという危機感だ。前から僕には教養コンプレックスがある。それは夏目漱石や村上春樹、PKDなどをあんまり読んでないとかである。それで大学にいるうちには必ず読もうと思っていたのだが、いつの間にか大学4年の冬になってしまった。もう残された時間はわずかしかない。いままで夏休みや春休みに入るたびに「いっぱい本読むぜ」と思ってきたが、たいして本を読まずに新学期を迎えていた。おそらく僕は休みの間「いっぱい本読むぜ」と思いながらまとめサイトを読んでいた。そういう大学生活だったのだ。
そこで腑抜けた自分を鍛え直し、まともな教養人になって社会生活を始めるべく、本の感想を書くことを決意した。このように読書→感想執筆というシステムを構築することにより、ブログ投稿→アクセス数の増加→読書意欲の向上→読書という好循環を育むことが可能になる。
もうひとつは、自分の大学生活の記録を残したいからだ。普段の日記はべつに紙のノートに書いたりしているのだが、本の感想を書くことはあまりない。けっこうどうでもいい本も読んだりしているからだ。しかしこれからの数ヶ月は、人生でもっとも濃密な読書体験になる可能性がある。なぜなら、大学に入ってからずっと読もうと思っていたけどなぜか読んでいなかった本に絞って読むつもりだからだ。それは具体的には、以下のような書物の数々である。
<SF>
セルフリファレンスエンジン
ハーモニー
すばらしき新世界
1984年
高い城の男
流れよ我が涙、と警官は言った
猫のゆりかご
虎よ、虎よ!
ホミニッド―原人ー
<最近の小説>
愛と幻想のファシズム
服従
川辺のカフカ
1Q84
<文学>
蒲団
破戒
<人文>
消費社会の神話と構造
象徴交換と死
シミュラークルとシミュレーション
アースダイバー
偶然性・アイロニー・連帯
ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学
科学革命の構造
ised倫理篇
ものぐさ精神分析
そうだったのか現代思想
動きすぎてはいけない
錯乱のニューヨーク
<社会、経済>
サブカルチャー神話解体
ウェブ社会の思想
ウェブ社会のゆくえ
サブカルニッポンの新自由主義
日本の思想
日本の無思想
まぼろしの郊外
予想通りに不合理
クリエイティブ・クラスの世紀
ハマータウンの野郎ども
以上、57点。新書やビジネス系、経済学を使ったおもしろ研究系の本は排除した(いくつか入ってるが)。そういうのは社会人になってからもふつうに読めるはずだと思うからだ。
もちろんここに載せた本だって、社会人になっても読める。でも社会人になってから読むのと、暇な学生時代に読むのでは、感じ方が違うのではないか……と思うのだ。まあ人生は1回しか経験できないので検証不可能だが。
この記録は、10年後の僕が読み直したときに「へーこんなこと考えてたんだ」と感心する内容にしたい。10年後の僕を面白がらせる内容にしたい。したがって読み味の濃厚な本を選んで読みたい。
一応、いまざっと15分ぐらいググったり本棚を見たりキンドルの積読を確認したりして57冊選んだのだが、多分ほかにも読むべき本はあるのだと思う。でも基本的には、何か切迫した事情がない限り、僕は卒業までこのリストに載っている本以外は読まない。そうしないと読み終わらない。貴重な大学生の時間をもう無駄にはしたくない。
57冊ということは、今日から1日1冊読めば2月には終わるということだ。ただ、やはり1日じゃ読み終わらないのもあると思う。っていうかカラマーゾフとか1Q84とかって1冊としてカウントするの間違ってないか??……
ま、よくわからんががんばろう。
とりあえず今日は柄谷行人『日本近代文学の起源』と森川嘉一郎『趣都の誕生』について書く。
日本近代文学の起源。まず、近代文学においては風景が発見されることが重要だった。それまで風景というのはあってあたりまえすぎたので、とりたてて意識されてこなかった。だから源氏物語とかは風景描写がない。それが近代になって、描写されるようになった。なぜか。文学は人の行動、つまり外面だけではなく、内面を描くようになったからだ。内面を描くようになると、いままで気にしてなかった風景が気になりだして、メンヘラ的センチメンタルポエム描写をやりはじめる。
ではなぜ近代は内面を描くようになったのか。内面はなぜ発見されたか。それは告白という制度があったからだ。内面は最初から存在していたわけではない。近代特有の告白という制度が、人に内面をつくりださせたのだ。
ではなぜ告白するのか。それはキリスト教的な自立した自己の獲得のためだという。告白はべつに自分の恥ずかしいことをカムアウトして倒錯した快楽に身を委ねるためのものではなく、「こんな俺ですがいまは頑張ってます」というサクセスストーリーの一部として機能するのだ。だから告白することは強い自己の表現である。キリスト教→自己の確立→告白ということ。そこから内面→風景→近代文学ということになる。
もちろんこれは乱暴でおおざっぱな理解にすぎない。しかしブログの感想とはそういうものだ。
電気街だった秋葉原がなぜオタクの街になったのか。電気街に集まるギークたちはインターネット革命によって一部の特権階級のみがアクセス可能だった情報や技術を大衆に解放せんとした。もともとギークとはそういうもんだ。ボーイング747は軍用ではなく大型旅客機として使われたし。
アメリカというのは聖なるものを目指す文化がある。ディズニーはまさにそうだ。白雪姫とかはディズニーでアニメ化され、誰もが知ってる綺麗なファンタジーになった。しかしご存知の通り、ヨーロッパの民話である白雪姫の原作は、グロくてたいへんやりきれない内容なのである。アメリカはそこらへんの血生臭さをディズニーのキラキラ感で消臭した。が、日本のオタクというのはその逆をやるのである。アニメの文化が輸入されて以来、幼女をたびたび登場させ、性の匂いのする香水をまぶしまくり、コミケで有り余るリビドーを解放させた。それはある意味、ギークの行動習性にかなっている。つまり、特権階級のものだったアニメを大衆のものにしたということなのだ。
あとは官→民(都市のドラマトゥルギー)→個(本書)の時代とか、サティアンとの類似性とか、いろいろある。全体としておもしろかった。オタク論と都市論を横断した書物ってこれしかないんじゃないか。