「2日に1回ぐらいのペースで本の感想を書いていく。」などという宣言から5日が経過した。それがこのざまである。
本は読んでいるんだが、書くのがめんどくさい。果てしなくやる気がない。頭のなかで本についてあれこれ考えたりシャワーを浴びている時に独り言で感想を喋ったりはしているんだが、どうも書く気にならん。頭の中の観念をテキストファイルに変換してUSBメモリとかを経由してパソコンに移したい。
しかし今のところそのようなことは不可能なので、簡単に書いていく。
トラルファマドール星人の発想が面白い。運命論者で、自由意志を信じないんだな。だから「そういうものだ。」と。友達が死ぬ。そういうものだ。妻が死ぬ。そういうものだ。ドレスデンで10万人以上もの人が死ぬ。そういうものだ。そういうものだ。そういう……いや……それでいいのか? そんなことでいいのか? ……という疑問を我々に突きつけている。
ところで僕はこれをハヤカワ文庫で読んだのだが、カバーのそでのところに著者プロフィールがあって、「カート・ヴォネガット・ジュニア 1942年生まれ」と書いてあった。えー、第2次世界大戦のお話なのに作者は戦争中赤ん坊だったのか、と思った。その後カート・ヴォネガット・ジュニアについて調べたところ、カート・ヴォネガット・ジュニアというのは実はカート・ヴォネガットという作家のペンネームであり、カート・ヴォネガットは本当は1922年生まれなのだった。
何を言っているのかわからないかもしれないが、要するにこの小説は戦前生まれのカート・ヴォネガットが戦中生まれのカート・ヴォネガット・ジュニアに扮して書いたということだ。ここで面白いのが、この「スローターハウス5」はその全く逆の話が描かれているということだ。このことは同書の第1章で語られ、そしてそれは本編とはほぼ無関係な独立した章であり、かつとても短いので大した話ではないのだが、興味深い。
スローターハウス5は、とある戦前生まれの作家が、別のある戦争経験者の人生について書くことを決意するシーンから始まる。その戦争経験者、というのが本編の主人公であるビリー・ピルグリムのことなのだがそれはどうでもいい。要するにこの小説は小説内小説が本編なのだ、ということだけ抑えておけばいい。で、作家は戦争の時のことを思い出すために、かつての戦友に会いに行く。共にドレスデンで戦った仲間だ。その戦友とともにあのときはああだったなあみたいな話をする。そして、一緒にいる、その戦友の奥さんにこう言われる。「そんなこといってるけど、あんたたち戦中生まれだから全部妄想じゃない!」
すでにうろ覚えなんだが、1章はこういう小話なのである。ようするにここで登場する作家は、戦中生まれであるにもかかわらず、戦前生まれのフリをしているのである。これはカート・ヴォネガットがとった戦略の裏返しだ。彼は戦前生まれであるにもかかわらず、戦中生まれの(カート・ヴォネガット・ジュニアの)フリをしている。つまりここには、作者のレベルと作品のレベルとの間で捻れが起きている。
そしておそらくその捻れは、作者への疑念を読者に植え付けるためにカート・ヴォネガットが意図的に起こしている。「そんなこといってるけど、あんたたち戦中生まれだから全部妄想じゃない!」というツッコミはそのまま、「このカート・ヴォネガット・ジュニア1942年生まれとか書いてるけど、本当は戦前生まれだろ!」というツッコミに転換される。そういうことなのかなあ? と思った。うろ覚えなので間違ってたら死にます。そういうものだ。
スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)
- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,和田誠,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1978/12/31
- メディア: 文庫
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田山花袋『蒲団』
日本初の私小説らしい。弟子の女の子に恋した作家(田山花袋のことだろう)が、その女の子の彼氏を女の子に近づけまいとして策を弄するのだが、最終的には駆け落ちされて号泣、という話。主人公の作家が、弟子の女の子の引き出しにある、彼氏とやりとりしている手紙を盗み見て、「あ……これもう彼氏に肉を許してるじゃん……処女散らしてるじゃん……ああああああああああああああああ」みたいなことになるシーンがなんとも哀れであった。
フィリップ・K・ディック『高い城の男』
アマゾンプライムでドラマの字幕版が公開されたということで、読んだ。設定は面白いけどストーリーとしてはいまいちだった。パラレルワールドということで、考察のしがいはあるとは思うけど。良かったシーンといえば、雑貨屋がうさんくさいセールスマンから卸してもらったどうでもいいアクセサリーを田上に見てもらうところ。
「これは道でいうところの無があって陰なのに陽、陽なのに陰であり、それが歴史性のない大量生産可能な技術で作られたというところに一層アイロニーが」云々。雑貨屋はそれを真に受けて「じゃあこれをモデルにして大量生産の発注してきます!(キリッ」とか言って、「ええ……皮肉で言ってるのがわからないの?」とか言われて「すみませんでした。やめます(日本人は何を考えているのかさっぱり分からねえ」ってなるシーンですね。
文芸批評の勉強にもなるし、大学の出世システムの馬鹿らしさの風刺にもなっている。でもそれ以上に、ところどころメタフィクションになっているところが面白い。しかもそれは後半になるにつれエスカレートしていく。最後のポスト構造主義の講義では、これはメタフィクションですということをはっきり明言してしまっている。こうしてメタ言及することで、筒井康隆という作家を物語のレベルに引きずり下ろすことができるんです、とも言っている。そこが注目すべきポイントではないかな。
とてもおもしろかったんだけど、内容としては探求とかとだいたい同じ、哲学的エッセイ。いかにしてメタレベルを捉えるかという話を延々としている。巻末の東浩紀の解説がとても明晰で柄谷のことがよくわかった。
それにしても疲れた。たぶんまた更新が滞るかもしれない。