研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

本は飛ばし読みでいいのではないか

「研修期間が終わったら確実に土日しか本が読めなくなる」と直感し、最近学生時代以上に本を読んでいるのですが、そこでさまざまな疑問が生じました。一つはどのようにして本を読めばいいのかということです。つまり、読みたい本が多すぎるがゆえにとても一冊一冊をじっくり読んでいる暇がないのです。そこである程度本の趣旨が分かってきたらネットの記事のように斜め読みに切り替えるといったことをしたりするのですが、これはノンフィクションの本にしか適用できません。小説の場合、斜め読みができないのです。これにどのように対処すればいいか。

もう一つの疑問は、結局自分は本を読んで何がしたいのかという、きわめて根本的な問いです。読みたい本はある。読まなければならないと思う本もある。しかし、それを全て読み終わった時、僕は何をするのか。僕は何者になることができるというのか。これは僕がいま取り憑かれたように執着している読書という行為そのものに対する嫌疑であり、回答次第では学生時代から積み上げてきたあらゆる知の営みを無化することにもなるでしょう。それゆえこの後者の疑問に関しては、とりわけ真剣な検討を加えなければなりません。そこでさしあたっては前者の疑問に関して考えてみます。

本をどのように読めばいいか。先日伊藤計劃の「ハーモニー」を読み終えたのですが、中核となる主張は第1章を読み終えた時点でほぼ理解することができました。これは僕が普通よりも優れた読書感覚をもっているからというわけではなく、虐殺器官を読んだことのある人であればみな同じことを感じたと思います。そのため僕は「ハーモニー」の2章以降はほぼ惰性で読んでいました。これはハクスリーの「すばらしい新世界」とほぼ同じことを言っているよな……と思ったら最後の方で引用されていましたし。

主人公の友人であるミァハは、テクノロジーの発達による完全健康管理システムから逃れて病気になる権利を求めているわけです。JSミルの愚行権みたいなものですね。でもその異議申し立てがうまくいかないので、逆に徹底的に管理されてしまおう――意識を消すことで。という流れですね。体制に疑いをもち、理想と現実の落差に苦しむことさえできないようにしてしまおうというわけです。そしてそれは何者かの政治的な強制力によって実現される(「1984年」)のではなく、むしろアーキテクチャや高度医療技術の整備によって達成される(「すばらしい新世界」)。東浩紀「情報自由論」の文脈でいえば「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」へ。そして最終的には世界の人類から意識が消されたため、htmlタグで感情生成コマンドが本文中に挿入されている。このアイデアはおもしろいなと思いました。

そこで思ったのですが、僕は「ハーモニー」を最後まで通読する意味があったのでしょうか。結論から言えば「ハーモニー」は面白かったですし、意味があったとは思うのですが、今後この手の予想可能な小説と直面した時、僕は最後までその小説を通読するべきなのでしょうか。

僕はこの手の知識の吸収に関して、「称号獲得型」と「体験重視型」という2分法を提案します。

称号獲得型はとりあえず「読んだ」という実績を欲しがるので、最後まで本を読みます。しかしそれは必ずしもじっくりと本を読むことを意味しません。たとえば「ハーモニー」であれば2章以降を飛ばし読みするといったこともできたはずですが、それは「読んだ」という称号を獲得するためのプロセスに過ぎず、実質的な知識の吸収は1章を読み終えた時点で終了しています。

他方で体験重視型は、読み終えることよりも書物の世界観に浸ることを重視します。それゆえ2章以降を読み飛ばすなどということはありえません。

この2分法はさまざまな場面で適用可能です。映画であれば、称号獲得型はDVDを1.5倍速で再生し、効率よくさまざまなタイトルを鑑賞するといったスタイルを好みますが、体験重視型はそういうことをしません。また旅行であれば、称号獲得型は観光名所を効率よく巡回するためのプランを組みますが、体験重視型は地元の人がよく行く酒場にふらっと立ち寄ってみたりすることを好みます。

いまの僕は典型的な称号獲得型なのですが、このスタイルは少なくない人からの反感を買います。曰く、「本の良さをわかってない」「本をバカにしている」。確かに称号獲得型の読書は本に対する敬意を一定程度欠いているのかもしれません。体験重視型の人は僕よりも任意の本について深く理解することになるでしょう。

しかし深く理解したといっても、記憶というのは薄れていくものです。2年前に読んだ本について、今即興で感想を語ることができるでしょうか。よほど印象に残った本でない限り、なかなかできないのではないでしょうか。

そう、私たちは「ものを忘れる」。本を読了した瞬間から、その記憶は汚染され、失われていく。であれば、私たちがいまこの目の前にある本をじっくりと読むことにはどのような意味があるのでしょうか。

これは極端な虚無主義に到達することを意味しません。「だったら本なんて読む意味ないじゃないか」ということではありません。むしろ私たちはそこで、「読むとは何か?」という根本的な問いに立ち寄って、「本は最初から最後まで通読するものだ」という強迫観念から脱却し、「読書」の意味の消失と再生を企てなければならないのです。

ここで簡単な例を考えてみようと思います。私たちは学校の歴史の授業で江戸時代について学びます。そしてその知識をもとに、江戸時代とはどういう時代で人々がどういう暮らしをしていたのかといったことを考えます。さて、私たちはその思考の材料をどこから調達しているでしょうか。それは言うまでもなく学校の歴史の教科書です。ところで歴史の教科書はn次資料です。つまり、実際の江戸時代があり、江戸時代について書き残された史料があり、それについてまとめられたのが教科書であるわけです。

私たちは無数の媒体を経由して江戸時代のことを知っています。江戸時代の実態の書き写しの書き写しの書き写しぐらいを読んで、江戸時代について「知った気になっている」のです。しかしそれで知った気になっていることのなにがいけないのでしょうか。そもそも江戸時代については時間的要因により伝聞でしか知ることができません。それに「江戸時代に生きてないやつが江戸を語んな」といった指摘に実効性がないことは自明ですね。

私たちは江戸時代を生きていない。にも関わらず、江戸時代について間接的に知り、語ることができる。そしてそれは知的な行為としてたやすく認められる。しかし他方で、映画を1.5倍速で見て語る人に対しては徹底的に攻撃を加える。

どういうことでしょうか。私たちは「江戸時代」というDVDを1000倍速ぐらいで見て、そして江戸時代について語っているんですよ。それがなぜ、いまの映画になるとだめになるのか。

おそらく読書をめぐる一連の問題の急所はここにあります。私たちはもはや江戸時代を生のままリアルタイムで体験することができない。しかしいま目の前にある映画のDVDや本は、リアルタイムでじっくり体験できる。であれば、1.5倍速にしたり飛ばし読みをしたりせず、最後までじっくり見るべきだ。これが現代の私たちの前に横たわる問題の強迫観念です。

無数に氾濫するコンテンツは、ネット開闢以来とっくに私たちの認知限界を超え、いまもなお増殖を続けています。そのなかにあって体験重視型の強迫観念が支配的になっている。これはたいへんなことであるということは、感覚的にわかることだと思います。

ではこの強迫観念にどのように対抗すればいいか。方法論の検討はどこか別の機会に譲るとして、ここではひとまず「称号獲得型であれ」という結論をいっておきます。

考察の最後に、この読書問題と以外なところで接点をもつ、ある小説を簡単に紹介させてください。それは筒井康隆の「時をかける少女」です。未来人の一夫の世界では、「睡眠テープ」という教育機械が用いられています。未来では生まれた子どもは3歳から睡眠テープで睡眠学習を施され、小学校卒業ぐらいの段階で今の大学院生程度の知識を身につけます。なぜこのような教育が行われているか。もちろん、学問を発達させるためです。人間が生きている時間には限りがある。読める本の冊数にも限りがある。だから睡眠学習とか、脳に電極を挿して知識を「注入」したりとか、そういった手段で勉強を効率化する。

高度に発達した学問は、徐々に歴史が折りたたまれていくものです。アインシュタイン相対性理論について晩年まで考えていたわけですが、いまは大学院生がアインシュタインも知らなかったようなことについて考えているわけです。過去の知はそのようにして堆積し、新たな世代がそれを参照し、また新たな知を積み上げていくわけです。そのためには体験重視などしていられない。コンパクトに要約されたアーカイブを効率よく摂取していかなければならない。そして人類は進歩しなければならない。

しかしその営みは、たしかに、私たちが人間であるがゆえに備えていた、なにか重要なものと引き換えにして得られているようにも思われる。