研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

残業の終わりに

土曜日に青のワイシャツを買った。同じサイズのものを2枚だ。僕は基本的にワイシャツは白のものしか着ない。それは自分の選択肢を減らし認知資源の消耗を防ぐというきわめて功利主義的な思想に依拠した見解だった。そもそもスーツや制服というものは、毎朝の服選びという面倒で細々した決断を回避し脳のリソースを確保するためのアイテムだと僕は思っていた。だから社会人になった今も、スーツはできるだけシンプルであるべきであり、そうすることで仕事の精度も上がるのだと考えていた。

それはともかく僕は青のワイシャツを買った。また、新しい濃紺のネクタイとネクタイピンも買った。試みに家で新しいシャツとネクタイとネクタイピンをジャケットに合わせて着てみると、いままで鏡で見た僕のなかで一番大人っぽい僕がそこに現れた。僕はかなり満足だった。ワイドカラーの襟は堂々とした雰囲気を演出していたし、光沢のあるネクタイのディンプルは角度を変えて見ると鮮やかな陰影をつくりだしていた。腕を伸ばして腕時計を見たり、ネクタイの結び目に指をかけてちょっと緩める仕草をするなどして、新たなスーツに包まれた僕がどのようであるかを様々な観点から仔細に検討した。結果としてわかったのは、今僕はかつてないほど決まっているということだった。そして、自分で自分のことを決まっていると思っている人間がいかに決まっていないかということもまた結果として明らかだった。

 

平野啓一郎『マチネの終わりに』を読み終えた。会社の先輩が勧めていたので読んだ。が、そこでわかったのは僕がその先輩とは趣味のベン図が重なり合う領域が狭いか、あるいは重なり合っていないということだった。人は一つの人生しか生きることができない。にもかかわらず、人はありえたかもしれない別の人生について想像してしまう。その「ありえたかもしれない」という仮定法過去の総量が「こうなるかもしれない」という仮定法未来の総量を超過するのが35歳である。というのが、東浩紀による村上春樹の読解だった。東は、一方で「自分はこうなるかもしれない」という未来予想は年を経るごとに減っていき、他方で「自分はこうだったかもしれない」という別の人生の想像は年を経るごとに増えていくという現象に着目し、村上春樹はその2つの量の均衡点が35歳にあると主張している、と解釈した。

平野が本作で示したテーマも概ね同様のことを言っている。本作の中心人物であるクラシックギタリストの槙野とジャーナリストの洋子は、互いに惹かれあい結婚を意識するも、槙野の仕事仲間である三谷の嫉妬による介入から、その仲を引き裂かれてしまう。具体的には、三谷は槙野を装って一方的に別れを切り出すメールを洋子に送ったのだ。そうして洋子は槙野のもとを去った。のち槙野は三谷と結婚し(槙野は洋子が自分の元を離れた原因が三谷にあることを知らない)、洋子はまた別のパートナーを見つけ幸せに暮らしていくのだが、二人はふとした瞬間にありえたかもしれない別の人生を夢想してしまう。しかしそのようなことを考えてはならない、いまある人生を生きていかねばならない、と二人は自分に言い聞かせる。それは槙野が、洋子との破局の原因である三谷から事の真相を聞かされた時の反応に表れている。どうして今になって明かしたんだ、それを僕に言わずにいれば僕は何も知らないまま君と幸せに生きていたのに。槙野は自分が「ありえたかもしれない」世界に捕らわれてしまうことに敏感だった。一度「ありえたかもしれない」世界を想像してしまったら、もうこの世界をまともに生きることはできなくなってしまう。だからこそ「ありえたかもしれない」世界の可能性を提示した三谷に対し、槙野は怒ったのだった。

人は過去を変えることはできないが、過去の感じ方を変えることはできる。過去はその程度には脆いものなのだ。これは本作の要所で繰り返し提示されるテーマである。妻となった三谷から真相を明かされた時、槙野はおそらくこのことを考えていた。槙野は洋子と別れたという過去の感じ方を再構成していた。あの出来事は偶然の出来事に過ぎなかった。何かが少し違ってさえいれば、たとえば携帯電話をタクシーに忘れたりしてさえいなければ、洋子と別れることはなかった。なにか一つネジが緩んでいたせいで自分は洋子と別れ、別の人生を歩むことになった。しかし裏を返せばそれは、そのたったひとつのネジがしっかりはまっていさえすれば自分は洋子と一緒になれたということでもあった。であるならば、自分が洋子と別れたのはまったくの偶然だったということになる。そこに必然性はなかった。十分な根拠はなかった。だから槙野は、ありえたかもしれない洋子との結婚を想像することができた。三谷と結婚するという今のこの人生は、きわめて偶然性の高い結果の世界だった。

にもかかわらず、槙野は三谷との結婚生活を否定する気にはなれなかった。槙野は、三谷との生活を不満のない幸せに満ちたものとして享受していた。それは確かに高度に蓋然性の低い世界、100個の平行世界があるのならそのうちの1つでしかないような世界だったのかもしれない。けれども槙野は、その100分の1の例外のこの世界を愛していた。だから今更、100分の99の世界に思いを馳せることなどできなかった。というよりも、したくなかった。それは100分の1であるこの世界への背信になってしまうからかもしれない。

僕はこの点を非常に重要視する。最初に言ったように、人は一つの人生しか生きることができない。にもかかわらず、人はあったかもしれない別の人生について想像する。そしてそのあったかもしれない別の人生は、しばしば今生きているこの人生よりもいいものであるように考えてしまう。しかしあったかもしれない別の人生について考える事hは、今生きているこの人生を無視し、裏切り、切り捨てることになってしまうのではないか。『マチネの終わりに』の槙野も同様のジレンマを抱えていた。僕はその点を非常に高く評価したい。

けれども最終章で、物語は「あったかもしれない別の人生」の達成に向けて急速に舵を切っていく。二人が分かれてから2年半後、槙野が自分のコンサートを見に来た洋子と会場外で会い、小説は終わる。二人はその後、「感じ方の変わった過去」について話をするのだろう、といった想像を読者はすることになる。この終わり方が僕は気に食わなかった。

まず第一にきわめて個人的なレベルで、そもそも別れた二人が最後にであって話すという終わり方があんまり好きじゃない。「秒速5センチメートル」も「バタフライ・エフェクト」も、最後またすれ違い、ただの一言もかわさずに今のこの人生が続いていくというところが、「35歳以後」の問題を露わにしているようでたいへん味わい深い。が、本作は二人とも過去の再解釈及び再構成に向けて爆進しており、「あったかもしれない世界」に急接近している。「過去を変えることはできないが、過去の感じ方を変えることはできる」とはポジティブなメッセージだが、そのポジティブさが僕にはいささか気が重い。僕はそんなに容易く過去の感じ方を変えたりすることはできない。

そして第二に……いや、第二はないな。僕は個人的なレベルでこの作品が苦手だった。ちょっと。でもそれでもいいのではないかと思う。小説とは個人的なことをフェイクを混ぜて暴露することなのだから。