研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

欲望、表現、行為

人間には欲望と行為の2つのレベルがある。行為は公的な規制を必要とする。たとえば殺人や窃盗は公的に規制すべき行為の代表例である。一方欲望は原理的に規制ができない。たとえば人を殺したいとか人の物を盗みたいという欲望は公的に規制することができない。

この2つのレベルは密接に関連している。欲望は行為を生む。けれども人は欲望は持ちつつも行為はしないということがある。たとえば人を殺したいと思っても(欲望)、実際に人を殺す(行為)ことはしないというケースは無数にある。その意味では、そもそも欲望を規制することにはあまり意味がないということも言える。

以上をまとめると、人は人の欲望を規制することができない(あるいは規制しても意味がない)がゆえに行為を規制せざるを得ないということができる。

さて、ここで問題になるのが、欲望と行為の間に存在する表現という第3のレベルである。表現は規制の対象となるかどうか。これはつまり表現を欲望とみなすか行為とみなすかの問題でもある。

表現は原理的に規制可能である。たとえばその表現方法が本の出版なら、公的な検閲と出版差し止めなどが考えられる。その意味で表現は行為に近い。けれども表現は行為と違い特定の他者に直接関与しない。たとえば児童ポルノ作品を描くこと(表現)は、実在する児童を直接傷つけること(行為)にはならない。その意味では表現は欲望に近い。ゆえに児童ポルノ作品は規制対象とすべきではないというロジックをつくることができる。

しかしここで私たちは別の例を考えることができる。ヘイトスピーチは表現の1つであると考えられている。けれどもそれは同時にきわめて積極的に他者に関与する行為でもある。ゆえにヘイトスピーチは規制対象とすべきというロジックを立てることができる。

2つの例から分かるように、表現は場合によって規制の対象とすべきかどうかが分かれる。そしてその分かれ方は、繰り返すように、その表現を欲望とみなすか行為とみなすかに懸かっている。表現は欲望であると同時に行為でもある。表現規制を巡る議論は、私たちの欲望と行為を巡る議論でもあるのだ。