研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

アメコミのビジネスモデルーー「ダークナイト」と「ジャスティスリーグ」は違う世界の話をしているか

アベンジャーズ』の大ヒットにより世界はアメコミという古くて新しい世界に熱狂している。だが、ほんとうの熱狂は映画とは別の場所にある。

 

1985年、アメコミ界は崩壊した。「ザ・クライシス・オン・インフィニットアース」……当時、DCの世界には複数のスーパーマン、複数のバットマン、複数のワンダーウーマンがいた。同じ設定を使いながらも違う物語が展開されるアメコミ特有の文化が複数の平行世界ーーマルチバースを構成したのだ。ちょうどティム・バートンの「バットマン」とクリストファー・ノーランの「ダークナイト」が、ストーリーは違えど同じバットマンとして描かれたように。

 


読者のキャパシティを超えるほどに肥大化したDCは、ついにスーパーヒーローたちの世界を刷新することにした。しかし、設定を継承したまま新たなストーリーを始めるだけでは意味がない。これまでの読者からしたら、新しく始まったストーリーさえも数ある平行世界の一つでしかない。いたずらに知っておくべきサイドストーリーが拡充され、新規読者の参入を阻むだけだ。そこでDCが取った戦略が「世界の崩壊」である。これまで出てきた平行世界のキャラクターたちが一堂に会し、そして世界が崩壊する。これを正史として描くことで、崩壊後に続くストーリーは「公式」の、「メイン」のストーリーとして君臨する権利を得たーー無数に存在する平行世界のなかのひとつとしてではなく。こう言い換えてもいいだろう。前述の「クライシス」は「世界」ではなく、無数の世界が束になった「宇宙」そのものを書き換える試みだった。つまり物語ではなく設定そのものを、バースではなくマルチバースそのものをリセットするのだ。

 


アメコミにおいて漫画の世界とは、ひとりの特権的なライターによって描かれるものではなく、キャラクター自体が生み出す無数の物語の総体を指している。アメコミのシナリオはコミックによってライターが異なる。アートを担当するアーティストも異なる。ただキャラクターだけが同じ。アメコミは出版社主導の公式同人誌によって成り立っている。その意味でアメコミはとてつもなくキャラクター先行型のビジネスモデルであるといえるし、逆に優秀なライターを取っ替え引っ替えできるという意味ではシナリオ先行型ともいえる。これは日本の漫画にはない特徴だ。しかも無数の「同人誌」をただの同人誌として放置するのではなく、「クライシス」によって一度正式に破産宣告し、改めて正史を紡ぐという誠実さがアメコミにはある。戦前・戦中の「ゴールデンエイジ」も戦後の「シルバーエイジ」もなかったことになったわけではない。ただ、世界が改変されただけなのだ。それを象徴するようにアメコミには「アース」という概念があり、これまで誕生してきた物語世界にナンバリングがされているのだが、ここらへんは長くなるので省略する。

 


話を戻そう。DCはこうした破壊と再生を繰り返すことで、「今更バットマンなんてついてけないよ」と尻込みしていた潜在読者を獲得することに成功した。「ザ・クライシス・オン・インフィニット・アース」が世間に驚きを持って迎えられたのは、この「クライシス」の系譜に連なる一大リセットイベント(「リランチ」と呼ばれる)の最新版「フラッシュポイント」が大成功を収めたことからも想像に固くない。

 


2011年の「フラッシュポイント」は、DCの古参ヒーローの一人であるフラッシュを軸とした時空改変ストーリーだ。フラッシュがある朝目覚めるとそこは普段の世界とは別の世界になっていた。ブルース・ウェインではなくその父トーマス・ウェインがバットマンの装束に身を包み、スーパーマンは政府の地下施設に幽閉され、ワンダーウーマンとアクアマンは国家間戦争をしている。そして主人公バリー・アレンは幼少期に失くしたはずの母親が生きていることを知る……そんな世界に来てしまったフラッシュが、いかにして世界を元通りにするか、なぜこの世界は変わってしまったのかが「フラッシュポイント」の核となる。そしてこの物語の終わりでフラッシュは世界を元通りに再改変するのだが、ここでDCの世界はひとつの区切りを迎え、新たなるステージへーー通称:the new52! へと移行するのだった。