千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里『欲望会議』を読んだ。
最近ではプリキュアの「男の子だってお姫様になれるよ!」などに代表されるポリコレを批判している。
ついに男の子がプリキュアになってしまった昨今、「なりたいものになれる」というのは世界のトレンドになっている。
たとえばスターウォーズスターウォーズep7は、ただの平民の子がジェダイの騎士になる話だ。本来は選ばれた血族だけがフォースを持つはずなのにもかかわらず、である。だから副題は「フォースの覚醒」となっている。この設定は、ルーカスフィルムがポリコレの帝王・ディズニーに買収されたという事実が影響しているといわれている。こどもたちに夢を与える設定だろう。
しかし「なりたいものになれる」という夢は、ただちに「なりたいものになれないのは、おまえの努力が足りないからだ」といったネオリベ的自己責任論を呼びよせる。
フォースがなくてもジェダイになれる、ジェダイじゃなくてもフォースが使える、そんな理想が言祝がれる社会において、生まれ育った環境を言い訳にすることは許されない。だって頑張ればなんにでもなれるんだから。障壁は存在しないのだから。
アメリカで中産階級が低所得層を「怠惰だ」と批判するのも、大きくいえばこのフレームに基づいている。流動性の高い現代では、下から上へとレベルアップするのも努力すれば容易だし、上から下へと転落するのも容易だ。
トランプが分断を起こしたとかよくいわれるが、それも基本的には流動化不安への煽りが根本にある。明日は我が身かもしれない、そんな不安を隠すために下の階層を批判し分断線を引く。階層の障壁なんてないという幻想がより強固な障壁を築くというわけだ。
話をもとに戻すと、「なんにでもなれる」という幻想は「なりたいと思ったら努力して叶えなければならない」という脅迫を生むことになる。なんにでもなれるのだから。
転じて、「〇〇になりたい」といいながら〇〇になれない人は、努力不足だと批判されることになる。であれば、最初から〇〇になりたいなどといわないほうがいい。欲望を表明しないほうがいい。そういうことになりかねない。だからだめなのだ、「男の子だってお姫様になれるよ!」は。