会社で周りの人が小津安二郎について話していた。それで伊丹十三の話に移行しつつあるときに、「〇〇君(←私)映画好きだよねー」「あ、すみません伊丹十三をググってもいいですか」「「「ええーっ!」」」で死ぬほど恥ずかしかった。え、そんな有名なの? でウィキを読んだら『マルサの女』の人なんだと。へー。若い頃は役者をやっていたが、51歳の時に『お葬式』で監督デビュー。国内で高い評価を受ける。ふむふむ。蓮實重彦に傾倒しており、彼の理論をふんだんに取り入れた本作だが、試写会で蓮實重彦に話しかけるも取りつく島もなく、酷評に期待を裏切られ、絶望した。その後はエンタメ重視の監督となり、マルサの女を撮る。なかなかいいエピソードだ。これは気になる。
とにかく己の無教養ぶりに呆れ、恥ずかしくなり、会社のPCで伊丹十三のウィキを読みながらくそー、くそー、と苛立っていた。察しの通り僕は『マルサの女』も見ていない。見なきゃいけないとは思っている。でもまだ見てない。いや見ろよ、という話だが……
『止められるか俺たちを』を見て面白かったが、白石和彌の映画は見たことない。無教養とはそういうことをいう。
映画好きを公言することじたいがまちがいっているようにも思う。ていうか映画好きってなんなんだ。映画館で映画見るのが好きでも、たとえばアメリカンニューシネマとかヌーヴェルヴァーグとか知らないひとはいるだろう。でも俺たち、というか俺が見てない『劇場版コードブルー』や『相棒』、あるいはよくある少女マンガ原作の実写、そしてアメコミ映画(は俺も見てるけど)なんかを好んで毎回映画館に足を運ぶ人が「映画好き」を自称しているとして、その人を「お前は映画好きなんかじゃない」と批判するのはそんなに正当だろうか? ……うーん、正当な気がしてしまうな。なぜならそんな簡単に映画好きを自称されると、映画好きと「映画好き」のミスマッチが起こるから。たとえば映画好きなら当然知っているはずの伊丹十三についての会話が「映画好き」とは成立しなくなったりする! ……ある種の「コード」を守るためにも、ある程度のハードルが必要なのだ、映画好きを名乗るには。
こないだ吉本ばなながテレビに出ていて、司会が「お父様も作家だったのですか?」と聞いて話題になったらしい。これを世代の問題とするか、たんに無教養なやつと批判するか。無教養と批判すべきだろう。吉本隆明を知らんというのは知の継承が途絶えている証左だ。これはいかん。……っていうか知らなくてもいいけど、テレビで一緒になる人のウィキぐらい読んでおけよ!
「映画が好き」という気持ちを肥大化させるツールがいまや無数にある。フィルマークスでアベンジャーズについて朗々と語っていればあるていどのいいね!がつけられ、「映画好き」としての自認が強化される。しかしかつては、映画好きが映画の楽しみを増幅させるためには、キネ旬やら秘宝やらスクリーンなんかを読むしかなかった。そしてそれらの信頼できるコンテンツを読んでいれば映画好きとしての映画の見方は身についた。だがフィルマークスを見ているだけじゃそういうのは身につかない。訓練が行われない。
訓練が俺には必要だ……手始めに僕は『マルサの女』『マルサの女2』を渋谷のツタヤでレンタルした。