研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

IZ*ONEのオンラインライブを見てニコ生の「流れるコメント」は偉大な発明だと再確認した

「遠く離れていても、心はすぐそばにあるよ」

 

昔「セカイ系」という、ある物語ジャンルがはやった。どんなジャンルかというと、一言でいえば上掲のセリフのような、物理的な距離と心理的な距離の乖離を主題にした物語系のことをいうのだった。それから20年ぐらいたって、まさかこんなセリフをリアルで――オンラインではあるにせよ――聞くとは思わなかった。

 

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IZ*ONEのオンラインコンサート「ONEIRIC DIARY」。今年3月から周回遅れでIZONEのファンになった僕は、2019年にソウルで行われたファーストコンサートのライブを収録した映画「EYES ON ME」を6回見に行った。それでも満たされないものがある。リアル感、ライブ感、音圧、雰囲気……いろいろ言えるけど、僕はもっと具体的にその欠落したものを名指すことができる。それは、一緒に見ている「観客の熱狂」だ。

 

Youtubeのコメント欄はしょせん文字にすぎない。映画は、絶叫上映でもないし、みんなじっとスクリーンを見つめているだけだ(そもそも現状では映画館としても絶叫上映を行うのはリスクが高いので、どこもやらないだろう)。そうではなく、僕はみんなと一緒に盛り上がりたいのだ。

 

……そしてオンラインコンサートが始まった。動画の再生プレーヤーにはライブチャット欄が付随している。基本的にはハングルが次々と流れていく。日本語はほとんど見かけない。それで、スマホツイッターを見る。だがライブ画面を見ながらツイッターを見るのは難しい。2窓での閲覧を試みるが、そうするとライブ画面が小さくなり、没入感が著しく削がれる。しかしスマホで見るとライブに集中できない。

 

これがたとえばMステのライブとかだったらべつにいいやと思っていただろう。でもこれは待ちに待った、僕にとってはファンになってはじめてのライブだ。集中して見たい。

 

メディア的な制約が僕を阻害していた。

 

イェナが「ユニットステージ」で見たこともない美しいパフォーマンスとガールクラッシュな表情を惜しげもなく披露していた。

 

ライブチャット欄を見たいが、どうせ韓国語のコメントばかりで、見ても僕には読めない。

 

ツイッターのタイムラインには、僕がフォローしたイェナペンの人たちが、次々と感想をつぶやいている。

 

「……」

 

 

僕はコメントを見るのをやめた。

 

見ることに集中した。PCを全画面表示にして。身を乗り出して、画面に向かった。

 

とはいえ僕は、観客と思いを共有したいという欲望には抗えなかった。曲の盛り上がるシーンで歓声が上がり、自分もそれにつられて声を出す、そんな当たり前のコミュニケーションをネットで代替したかった。それもリアルタイムで。

 

耐えきれず、何度もツイッターを開いた。目の前にいる彼女たちを無視して。何度も。

 

それが僕には必要だった。それが僕には抑えきれなかった。

 

ライブストリーミングではなく、ライブストリーミングのコメントを見たり共有したいという欲望を。

 

コンテンツそのものではなく、コンテンツについて語っているのを見たいという欲望を。

 

ということを考えながらこの文章を書いていたらあることに気づいた。ニコニコ生放送というメディアだ。高校生の頃から慣れ親しんでいたこれこそが、10年前にすでに、いま僕が言った諸問題をクリアしていた。

 

ニコニコが実装したあの「コメント」機能。あれは、「コンテンツそれ自体を楽しみつつもコンテンツについてのコメントを共有したいという欲望」を叶える設計だった。言葉にしてみれば当たり前だが、10年経って、韓国のアイドルのオンラインライブを通じて、やっとその意味に気づいたのだった。