研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「男らしさの呪縛」からそろそろと抜ける

こないだちょっとおもしろいことがあった。会社の後輩(男)とコーヒーで一服していたときのこと。後輩は他部署なのだが、そこの先輩社員に昼ごはんをおごってもらったらしい。

「それで結構食べ過ぎて、いまお腹痛いんですよ」

「何食べたの?」

「そば屋行ったんですけど、こんなでっかいかき揚げ頼んじゃって」

「おいしかった?」

「めっちゃおいしかったです! 先輩が『いっぱい食べていいよ』っていうから、いっぱい食べちゃいました」

「……いっぱい食べていいよって言われたから、いっぱい食べちゃったんだ(笑)」

「そう……いっぱい食べていいよって言われたから、いっぱい食べちゃったんです(笑)」

「素直だな~(笑)」

「フフフ……」

「フフフ……」

 

以前の僕だったら、太字にしたところで、「食いすぎだろwwwデブるぞww」とか、相手の行為を貶すようなことを言っていただろう。そうやって相手をバカにしてマウントを取るのが、男のコミュニケーションだと思っていたからだ。

高校生の時、大学生の時、周りの男子はみなそのようなコミュニケーションをとっていたし、テレビのバラエティ番組で大きな声を出す芸人もみなそのような態度を取ることで笑いを取っていた。それを見ながらずっと居心地の悪さを感じていたのにもかかわらず、自分自身がその闇に飲み込まれているということに気づいていなかった。それに気づいたのは、本当に恥ずかしいことに、つい最近のことだ。

相手を茶化して、攻撃して、強さを誇示するようなコミュニケーションをしていたのは、集団のなかで舐められないようにするための自己防衛が目的だった。なぜかというと、ある種の男性同士の会話というのは、隙あらば茶化し、攻撃し、マウンティングして強さを誇示して笑いあうようなモードによって展開することがあるからだ。こんなこといったら突っ込まれるから虚勢張らなきゃ、という場面が思い返せばいくつもある。だがそれが落とし穴だったのだろう。

以上の話は、裏返せば、僕は弱さを互いに見せあうようなコミュニケーションができなかったと言い換えることができる。

去年、ある夕方、前述の後輩に喫茶スペースに連れられ、失恋の話を聞かされた。僕は缶コーヒーを奢り、どういう経緯だったのかとか、その時後輩はどう思ったのかなど、後輩が話しているのをただ聞いた。聞きながら僕は戸惑っていた。他人が自分の弱いところを、心のこんなに柔らかいところをさらけ出してくるというのが初めてだったからだ。でも平静を装って、ただ話を聞いた。そして「そういうのは時間が解決してくれるのを待つしかないからなあ…」とまるで甲斐性のない言葉をかけた。すごくつらそうな顔でコーヒーの缶を握る後輩。苛立ち3割ぐらいの声で僕に言った。「なんか、もっと訊いてくださいよ」

思えばあの時、僕は「ケア」を求められていたのかもしれない。

「男性同士のケア」という言葉をちょくちょく目にすることがある。検索すると、まず出てくるのは、「男同士でケアしあうなんて無理だ」「弱者男性同士で自助しろとはひどいじゃないか」みたいな批判だ。その気持ちはとてもわかる。まず努力すべきはケアされない男性ではなく、その周囲だろうと。僕もそう思う。ただ、ではなぜそうした男性がケアされてないという欠落感を抱いているのかといえば、それは周囲の女性がケアしてくれないからではなく、周囲の男性が、前述したような、茶化して、攻撃して強さを誇示するようなコミュニケーションをしているからかもしれない。「男らしさの呪縛」に取り囲まれる世界は、動くたびに血が流れる茨のなかのようなものだ。

そうではなく、茶化さない、攻撃しない、強さを誇示しない。まずはそこからだ。ケアするっていうと、BTSみたいにイチャイチャしたり、ユニバの女子大生みたいなのをイメージしたりするかもしれないけど、そうではない。まず、やめる。「男らしさの呪縛」からそろそろと抜ける。まずはそれでいい。

かきあげを食べすぎた後輩との対話によって、僕はそのことに気づいた。いまの僕なら、きっと、あの時の後輩をケアする会話をすることができる。