研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

自分の苦しみを語れよ

最近読んだ本ですが、まず「モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究」。非モテを自称する人たちの語りあいの場を主催する大学の研究者の人の本。彼らがどのような鬱屈を抱えているのか、実例をもとに紹介しているのですが、読んでいくうちに、彼らの本当の悩みの核心はほんとうに非モテであることなのか?(いや、そうではないのではないか)と、モヤモヤした大文字の「生きづらさ」が因数分解されていくのが面白い。

ぼくの解釈でおおざっぱに言えば、彼らの、というかぼくたちの生きづらさとは、自分の苦しみを言語化できないこと、社会から暗に強制される競争の螺旋から降りられないこと、自分の弱さを開示できないこと、といったことにあり、それは異性からモテるかモテないかといった話とは独立したところにあった(ことが多いのではないでしょうか。もちろんモテと切り分けられない人もいると思います)のです。

この本の中には、淡々と自己分析をして自分の問題点を探り処方箋を自己処方する人もいれば、他方で、自分の鬱屈をアート作品に落とし込んだり、学術的なタームを用いて客観的に観察しようと努めたり、誌的な表現で昇華しようとしたりする人などが出てきます。それぞれの人の語りには、共感できるところもあれば、そんな考え方があるのかと驚いたり、あまりに赤裸々すぎてそれ以上目で追えなくなってしまったりもします。

こうした語りを見て思うことは、当然ですが、世の中にはいろんな人がいるということです。大文字の「男らしい人」に当てはまらない人の中にも、当然ながら無数の多様性があり、それぞれが固有の「生きづらさ」を抱えている。その微妙なグラデーションを当事者が言語化して描くことで、いままで不可視化されていた人――自らの苦しみを言語化できていなかった人――それゆえに「なかったことにされていた人(!)」たちが、悩みを共有して、「自分は一人じゃないんだ」と思うことができるならば、それはとても大事なことだと思うんです。

自らの苦しみを語る言葉を持たない男性たち。まさにその陥穽を指摘したのが恋バナ収集ユニット・桃山商事の清田隆之さんです。清田氏は、男性は自分の気持ちを言葉で表現しない、ゆえにコミュニケーションを取ろうとしない男性パートナーに悩む女性が多いということをしばしば著書で語っています。しかし一方で、女性は女性同士で互いの身の上話をしあう=「お茶をする」のに男性はそれをせず競争的マウンティング合戦ばかりをしてしまう、ということも指摘しています。近年の人文書の流行りのタームを使えば、女性は女性同士で「ケア」をしているが男性は男性同士でケアをしない、ともいえるかもしれません(もちろん男性はこう女性はこう、と単純化して語るのはよくないですが、清田氏の指摘をもとに図式化すればこう言えるのかもしれない、ということです)。

しかしこれは、多くの男性が感じるように、難しいことです。自分の弱さを開示することは、文字通り「相手に急所を見せる」ことであり、相手によっては即座に致命傷を食らう可能性があります。ある種のコミュニケーションとはそういうもんなのです。例えば、これは大した例ではないかもしれませんが、以前、仕事で上の人に「こういう悩みがあって、仕事の意味が分からないんです」的なことを言ったら、「でも私が新卒のころはボロ雑巾のように使われていたけどね。大変だけどそれで鍛えられるしね」と、まるでぼくの苦しみなんて考慮にも値しないが? みたいにあしらわれた経験があります。それ以降、その上司には不信感しかありませんが……

まあとにかくそういうふうに弱さを人に見せるのはかなりのリスクがあるわけです、とくに男性同士の場合。ではどうすればよいか。ぼくの提案はただ一つ、ブログでやろうぜということです。ブログなら見知った人に急に否定される可能性もないし、なんなら知らない人から共感のコメントをもらえる可能性もあります。実際、ぼくはこのブログを大学生のころからもう8年ぐらいやっていますが、たまーにはてなスターをもらったりして、ああ、ぼくの言葉がいくばくか届いたのかなとうれしくなることがあります。

だから自分の苦しみを語れよ。自分なりの言葉で。(飲酒執筆・1727文字)