父が自死してから19年が経った。正確な日付は覚えてないけど、1月下旬のことだったことは覚えている。当時8歳。小学2年生の終わりごろだった。その夜のことは実はけっこう覚えている。母はそのことを知らないかもしれない。「小さかったから覚えてないでしょ」みたいに思っているかもしれない。でも実は覚えている。
警察が来てさまざまなことがあった後(本当にさまざまなことがあった)、僕と2つ下の弟は2人の叔母に連れられ、近所のバーミヤンにいた。叔母たちは僕たちの気持ちを落ち着かせようと、遊戯王カードの話をしてくれた。ブースターパックにおけるキラカードの出現確率とか、英語表記カードはレアでコレクターから人気だとか、そういう話だった。だが僕と弟はデュエマ派だったのであまり興味がもてなかった。叔母たちは明るく振舞っていたが、楽しそうにしない僕たちを見て結構焦っていたと思う。ああ、子どもが落ち込んでいる……と。僕たちのことを気遣って、僕たちが興味をもちそうな話を積極的にしてくれているのだな、と僕は思った。8歳だったが、気を遣われて苦しいという感覚が明確にあった。
今になって思うのだが、僕たちなんかより2人の叔母のほうがもっと大変だったのではないだろうか。父は僕にとっては8年間の父だったが、彼女たちにとっては約40年間共に生きた弟だった。それがある夜、突然死んだのだ。本当に悲しかったのは、つらかったのは、むしろ2人のほうだったはずだ。あの夜、2人の叔母はどんな気持ちで、あのバーミヤンの席に座っていたのだろう?
それからしばらくの間、僕の家には母、僕、弟に加え、祖父と祖母が住んだ。なぜかは知らない。僕たち兄弟のことを心配してそばにいたがったのかもしれない。あるいは亡き息子の影を探し求め、僕らの家にいたがったのかもしれない。そこら辺の事情は分からない。だが母は、祖父祖母の同居を明確に嫌がっていた。そりゃそうだ。僕たち兄弟に加え、嫁ぎ先の老夫婦の衣食住の世話までしなけりゃならないんだから。今まで母と義父、姑との間には夫がクッションとして存在していた(のだろうと思う)。だがその夫はもういない。血のつながりのない母と祖父一族をつなぐ結節点たる父亡き今、おそらく母の心労はすさまじかったと思われる。8歳の僕ですらそう思った。
こんなシーンを覚えている。母が、弟が食べ散らかしているテーブルの掃除をしていた。その時、台所の水が出しっぱなしだった。祖父はそれを指摘した。「●●(母の名前)さん、水が出てるよ?」「あーすいませーん」そう言いながら弟の世話をする母。「●●さん、水が出てるけどいいの?」「す、い、ま、せん!」誰が聞いてもイライラしてるんだなと分かる声色だった。これまで嫌々祖父祖母の世話をしてきて蓄積した不満が爆発したと思しき瞬間だった。母がこんなふうに祖父に怒りを表出させるのは初めて見たので驚いたし、怖かった。当時の僕の気持ちをそのまま書くならこうだ。ママとおじいちゃん、仲悪いの?
僕の家族観はそんな幼少期から形成されている。
僕が小学3年生に、弟が小学校に上がる4月、我々は別の区に引っ越した。祖父と祖母は自分の家に帰り、我々は3人家族で生活をスタートさせた。遺族年金が下りたので、なんだかんだ生活費には困らなかった。進研ゼミをやらされ、公立の中学と高校を出て、私立の大学に通わせてもらった。退屈で平凡な一市民だ。
父がああなった理由を僕は知らなかった。あの夜、親戚一同が僕の家に集まり、リビングで警察の立会いのもと何かを話し合っていた。僕と弟はリビングから締め出されていた。リビングから、母方の祖父が「わしに金があれば……」と泣きながら言っているのがうっすらと聞こえた。それを聞いて以来、僕は父の自死の理由を母に訊くことができなかった。どうせ聞いても子どもには真相を話してくれないだろう、と思ったからだ。
親戚からは訊いてもないのに「お父さんは天国からお迎えが来たんだよ」などと言われたこともあった。僕はふーんと答えた。母からは「パパはすべって頭をぶつけちゃったんだよ」と説明があった。それが嘘であることは明白だった。僕たち兄弟は、それが嘘の説明であることを知っていた。母が僕たちを怖がらせないように嘘の説明をしていることを知っていた。だがそれが嘘であることを指摘しなかったし、追求もしなかった。追求したら、母の僕たちに対する配慮を裏切ることになってしまうからだ。だから僕たちは母の虚偽の説明を聞いてふーんと言った。
いずれにせよ、父は僕の人生から自らの意思で退場した。19年が経った今もその理由は知らない。母にそれを訊くことができないからだ。
去年、同年代の人とお茶をして家族の話を聞いた。「私も姉も母も●●(アイドルグループの名前)が好きで、父が車を運転して、みんなでライブを見に行ったりもしましたね~」。その話を聞いたとき、僕の中に今まで存在したことのない感情が出現しているのを発見した。井戸の底から真っ黒い何者かが顔を出し、こちらを湿り気のある視線でじっと見てくるような感じだった。家族との楽しい日常。そんなもの、欲しいと思ったことはなかった。そういう楽しさがあることを知らなかったからだ。でも楽しそうに家族とのレジャーについて話すその人を見て、すごくうらやましいと思った。嫉妬……そんな家庭に生まれたからこの人はこういう風に育ったんだと思った。その人の話を聞いていると次第に自分がすごくみじめに感じられてきた。僕も何か家族との楽しい思い出について話そうと思って、脳内のアルバムをぱらぱらめくった。そこに写真はなかった。
僕が思い出すことのできる家族との思い出は数少ない。父との思い出は一つだけある。僕は父と2人でどこかのアーケードを歩いていた。そう、2000年の12月のことだ。テレビで、街じゅうで、「20世紀最後のクリスマス!」というフレーズがあふれていた。「クリスマスもうこれで最後なの?」と父に訊いた。「20世紀のクリスマスは最後だけど、クリスマスは来年も来るよ」と父は言った。
母と僕の記憶もある。引っ越した後、日曜日の朝、歌舞伎町のコマ劇場に連れられ、踊る大捜査線とか、いろんな映画を一緒に見た。映画を見た後はコマ劇場の近くのゲーセンでクレーンゲームをしたり、ラーメン屋やマックで昼ごはんを食べたりして帰った。
だが父と母と一緒に過ごしたシーンはまったく思い出せない。ダイニングで父が酒を飲みながらアコースティックギターを弾いているシーンは思い出せる。しかしその時台所に立っていた母がどんなことを言っていたのかは思い出せない。両親がどんなふうに夫婦生活を送っていたのか、そこで僕がどのようにしていたのか、一緒になにかをしたのか……そのあたりの記憶がない。父は母のことをどういうふうに思っていたのだろう? でも、それを訊く機会は19年前に永久に失われてしまった。