研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

はじめてのドタキャン

「あ、2人で予約した〇〇です。ちょっと1人来れなくなっちゃって、1人でも入れますか?」

 

ついにこれを体験する日がくるとは。ドタキャン。

まあ、昨日リマインドメッセージを送ってからずっと梨の礫だったので想像はしていた。朝、とりあえず髪をセットして待ち合わせ場所へ。気持ちのいい晴れ晴れした天気だ。10分前に店の前に着いた。やはり返事はない。一応一言「お店の前におります!」的なことを送っておく。返事なし。定刻、来なかったので入店した。

店員さんは気持ちのいい笑顔で迎えてくれた。「乾杯のドリンク一杯サービスとなっております」。乾杯? 1人だが…グレープ・フルーツ・ジュースを持ってきてもらう。チュゴゴゴ…(←ストローで吸う音)おいしい。で、ステーキを頼んで黙々と食べた。厚みのある赤身が肉肉しくて、栄養になるものを食べてる感じがした。なんか馬鹿みたいな感想だけど。。

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食後にコーヒーを飲みながらこれを書いている。ステーキを食べながら、僕は7年前、地元であったある出来事のことをぼんやりと思い出していた。大学3年の夏。バイト先に半年ぐらいだけいた人と交差点でばったり遭遇した。そんなに接点はなかったのに、優しく話しかけてくれた。たしか雨が降っていて、僕が濡れたまま歩いていたから傘を貸してくれたんじゃなかったっけ…その傘が返却される機会はもうないとわかっていながら。そのことに感動してブログを書いたことも覚えている。2015年の記事だ。

一期一会2.0 ~そして3.0へ~ - 研ぎ澄まされた孤独

なぜそのことを思い出したのだろう? それはたぶん…世の中には悪い人ばかりじゃないと信じたいからだろう。もう会わない、だから別に適当に接したっていい。にもかかわらずていねいに礼儀正しく、相手に対するリスペクトを忘れない人というのがこの世の中にはいて、僕は幸運にも、そういう人と会ったことがある。その体験が僕に大きな影響を与え続けている。

「なんでそんなふうに優しくなれるんだろう?」。その疑問がずっとあった。それに対して最近思うのはーーまあ、どのぐらいの関係性かとか共通の知人がどうかとかいろいろ諸条件はあると思うのだがーー「優しくない自分になりたくないから」ではないだろうか。別に雑な対応をしたって誰かにそれを言いふらされたり、第三者から指摘されたりするわけではない。自分の振る舞いをチェックするのは自分しかいない。しかしだからこそ、自分が理想とする姿から逸脱する振る舞いはできない。たんにそういうことなんじゃないかと思うようになった。

で、それでいうと、僕は最近、「自分のなりたい自分になれてる」という感覚がわりとある。相手に興味をもつ。笑顔を心がける。否定しない。共感する。自己開示する。楽しみながら話す。人と話すのがかなりラクになった。それもいろんな経験のおかげだ。

それで…ああそうだ、ドタキャンされた時にどう感じたのかを書き残しておこう。まあもちろんいい気持ちではなかった。自分を蔑ろにされた感覚はあった。蔑ろにされる経験は無数にあるのでいいのだが、予定をFIXさせたにもかかわらず連絡つかなくなるというのは初めてだったのでちょっとこう、なんか…行かない意志を通告するのは普通のことだと思っていたので。だけどまあ返事が来ない時点で覚悟はできていたので、当日気持ちがハードランディングすることはなかった。そもそもそんなに相手に期待してなかったことも気持ちに余裕をもたせてくれた(けっして「酸っぱい葡萄」ではない。自己分析に過ぎないけど…)。他方、店選びや予約をこちらでやったので、コストを不当に払わされた感覚もある。でもまあ、行ってみたかったお店だったし、料理も美味しかったのでそれはよかった。で、料理を食べながらいろいろ考え事ができたのもよかった。こんなふうに過ごしていると世の中に絶望する局面がいくつもある。「みんなこんななんだ」というふうに不信感が高まっていく。その闇に対して自力で希望を備給して対抗できるか。たぶんこれが大きなポイントで、「こんなことがあっても自分の価値はいささかも毀損されないし、世界には希望もある」と信じられる根拠をもたないと、メンタルきついよなと思った。