研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

なぜ、いつまでも悩み続けてしまうのか/モヤモヤは「書く」か「録音する」か

最近は、仕事を終えたら仕事のことは考えないようにしている。考えるのがつらいからだ。

正確にいうと、僕は考えるのが下手だ。直面している問題に対して、的確に情報を整理し、答えを出すのが下手だ。

だから直面している問題、いや問題という言い方は大げさかもな、感じている悩みに対して、自分なりの解決策を導き出して実行に移すことがなかなかできない。

目の前の問題に対して、こうすればよかったのか、でもあの時は自分はこうしたかったのだが、などと反実仮想と実際の差分を写しとって、そのズレが、ちゃんとした大人の社会人のあるべき姿からの偏差であるように感じて、自分を否定してしまう。俺って社会人としてのコミュニケーションできてないなとか、認知が歪みすぎてるなとか。

要するに、問題の先にある解決編に移行することができず、ずっと問題の前で足踏みしているだけなのだ。

なんでそんなに足踏みしているのだろうか。問題に対して、「ああいう場合はこうすればよかったのだ。次からはそうしよう」と、パッと反省すればいいだけの話なのに。それ以上悩み苦しむ必要はないのに。

でもどこか、そんな簡単に答えが見つかるはずがないじゃないか、と思ってしまう自分がいる。もっと俺はこの問題に対して悩み苦しまなければ、答えは得られないはずだと思っている自分がいる。

なぜだろうか? そんな「パッと反省」して解決するような課題に悩んでいるということを認めたくないから、かもしれない。要するに、俺はもっと重大で未知のトラブルに出くわしたのであって、それはそんな簡単に対処してクローズできる問題ではないのだ、と思っているのかもしれない。

それをパッと反省して終わらせてしまうのは、偽の解決であって、問題を適切に対処できておらず、手痛い失敗をしてしまうのではないか、と恐れているのかもしれない。つまり、自分のなかの簡易反省会で出た結論など間違っているに違いない、と自らの反省力を信じていないのかもしれない。

自分のことなのに「かもしれない」などと断定を避け、別の可能性を残しておく自分の優等生ぶりに反吐が出る。

……と、ここまでは言っていないが、いま書いたようなことのエッセンスを会社の人に話したら、ごく控えめにだか、共感の意を示された。その人の言葉を借りると、「一人反省会を終わらせられない」ということは、あるそうだ。

僕の悩みは、一人反省会を上手に切り上げることができない、ということなのだろう。確かにそうだ。

自分の内面を人に話すのはとても勇気がいることで、いままで僕はそういうことを避け続けていた。気味悪がられたり、否定されたりするんじゃないかと思うと、言い出せなかった。

でもこの人には話してもいいかもな、という人に話すと、意外にも共感されたり、共感されなくても、面白い考え方だね、と興味を示されることがあった。

どちらかというと後者のほうが多いかもしれない。それでも自分の考えや価値観が否定されなかったという意味では、とてもうれしいことだ。

たとえば、これは人と喋っている間に気づいたことだが、僕は、悩みをただ人にしゃべるだけではあまりスッキリしない。もちろん人に自分のネガティブな感情や繊細な部分を聞いてもらうことは、恵まれた癒しだと感じている。

でもそれで完全に荷が降りたとは思わない。じゃあどうしたらいいかというと、何かに残す。たとえばこういう日記。人に喋って聞かせるだけではなく、文字というメディアで外部化して、保存する。自分の考えを、具体的な形にする。

そうすることで、脳内のモヤモヤが塊となって、ようやく排出されたような気がする。それは人に喋るだけでは達成されない快感がある。喋った内容は自分で見直すことはできないが、書いた文章は自分で読むことができるからだ。

アウトプットすることによって、自分の考えたことを、少し距離を置いて見直すことができる。これは僕にとってけっこう大切なことだ。思えば高校時代から、どうでもいい日常の出来事+それについて思ったことを、当時はiPod touchでEvernoteに書き連ねていた。

近年は、仕事で疲れ切った夜には、文章を書くのも面倒くさいので、iPhoneのボイスメモに考えていることをしゃべって吹き込んでいる。で、後日、それを自分で聞き直す。音量を控えめにして、iPhoneを電話するように耳に当てて、スピーカーの間近で聴く。

すると、過去の自分が今の自分に電話をかけてきた、みたいな状態になる。それを聞いて、ああ自分はこんなことに苦しんでいたんだな、よく耐えたな、と思う。

……そういうことをやっているよ、と友達に話したら、けっこうおもしろがってもらえた。そんなことやってるんだ、おもしろいね、でも確かにいいこと(メンタルの保ち方的な意味で)だね、と。

そういうふうに、自分の考えを受け入れられることがうれしい。