マジで「終わらせて」しまった。
令和ロマン、M-1二連覇。
ご案内のとおり、M-1はお笑い芸人が羽ばたくチャンスだから、すでに人気がある芸人が出ることでそのチャンスを奪ってしまうのはよくないんじゃないか、という批判がある。
だから審査員も、なるべくなら、令和ロマン以外のコンビにチャンピオンの冠をあげたい、と思っていたところもあったのではないでしょうか。
しかし——純粋な面白さで圧倒してしまった。テレビ越しにもそれは明らかだった。ファーストラウンド、ファイナルラウンド、どちらにおいても会場はMAXに盛り上がっていた。
審査員の誰かが「圧巻」という言葉を使っていた。その通りでしかない。突き抜けてめちゃくちゃおもしろかった。
「終わらせよう」って、何を?
髙比良くるまの『漫才過剰考察』は、お笑いについて考察した本だ。何がウケて何がウケないのか。そういう、ロジックで笑いを分析する本だ。
しかし射程はそれにとどまらない。「そんな考察をしてしまう人間」についても考察している。
お笑いは感性のスポーツだ。感情を揺さぶるのに、自分は理屈をこねくり回して考えている。分析して戦略立てて最適解を出す、というのはちょっと違うんじゃないか? そんな後ろめたさみたいなものがある、というメタ考察が、『漫才過剰考察』に書かれていた。
高比良くるまは、TBSラジオの番組にゲスト出演した際、「学生お笑いとか若手1,2年目の芸人はみんな考察しちゃって、同じようなお笑いになっちゃってる」と言っていた。
一緒になっていく、似通っていく、均一化していく、と。
そういう、データを蓄えて最適解を出すAIめいた「計算」をする人が増えてきちゃってるのだと。で、その「考察」姿勢が一般化しちゃうとお笑いのシーンがつまんなくなっちゃわないか? と。
よく、右脳がアート的、直感的で、左脳が分析的、論理的とか言うけど、お笑いを左脳じゃなくて右脳でやりたい、という思いがあるのかな、とか思った本だった。
だからこそ「終わらせよう」というのが、本の核心でした。自分が過剰に考察することで、以降の考察をすべて無意味にしてやろう。M-1、冒頭で繰り出された「終わらせよう」にはそんな文脈もあった。その背景、文脈も含めて1人で作り出して利用していくのも強い。
ロジックを手放した?
ファーストラウンドのネタ「ワタナベ最強説」は、自身もM-1直後の記者会見やleminoの番組で言っていたように、ポッドキャスト番組「令和ロマンのご様子」でのリスナーのおたよりとの会話が元ネタになっている。フリースタイル雑談のトピックを素材にしてここまで練り上げてきたのはすごい。
ファイナルで披露した戦国時代にタイムスリップするコントネタはもう最高だった。時代劇のあるある(物知りな爺がいる、子どもの涙で覚醒する)に加えて、タイムスリップという設定を加えることで現代のコミュニケーションあるある(子どもの冗談に対して口パクで乗るように仕向ける、「この話始まると長いから」のジェスチャー、など)も取り入れている。
2つとも、どこまで「考察」して作ったんだろう? M-1直後のインタビューでは、「今年はネタを2本しか用意してない」と言っていた。去年のM-1では、ネタを4本用意して、ネタ披露の順番や直前までのコンビのネタの傾向、場の温まり具合などによってどのネタをやるかを選んでいた、というのは有名な話。でも今年はファーストラウンド用とファイナルラウンド用の2本だけだった。
ネタを作ったのも、10月ごろから3ヶ月ぐらいで作ったという(M-1直後のインタビューより)。それも練りに練ったというよりも、とりあえずやってみて、松井ケムリとの掛け合いのなかで作っていったと。
ネタのアイデアも、「ワタナベ」は前述のとおりラジオの会話から、「戦国タイムスリップ」のほうはディズニープラスで配信しているドラマ「SHOGUN」から着想したという。ネタの後半、ケムリが「2.5次元みたいな敵いる!」っていうのも、「『推しの子』読んでたんで」とか言ってた。
やっぱり流行りものをちゃんとチェックしてるんだよな〜。それに素直に感心してしまった。YouTubeでも「地面師たち」のパロディをけっこう早い段階でやってたし。時代の空気をつかもうとしてるんだろうな。考察もすごいけど、インプットの量もすごい。
令和ロマンの面白いところって、さっきもちょっと書いたようにささいな「あるある」がポンポン出てくるところな気がしているんですけど、「あるある」って、大量の物事を観察して構造化して頻度が多いものを抽出するってことだから、やっぱりインプットが多くないとできない。
多くの事例から抽出された共通点が言語化されると気持ち良くて笑いに転じてしまう……っていう。あれ、結局はAIみたいに大量データから考察した結果がおもしろいものを生み出すのか? わからない。
去年は考察して戦略を練って挑んだM-1だった。では今年は? 令和ロマンは、どこまで「右脳」でやったんだろう? それともゴリゴリ「左脳」で戦ったんだろうか?
どっちかはわからない。でも100%感性だけで作ったということはないでしょう。これまでずっと戦略でやってたんだから。考察と分析が武器だったんだから。
そう考えると、別に考察と分析を武器にすることに後ろめたさなんて感じる必要ないんじゃないか。感性でウケを取っている芸人が天才で、「狙って」やってるのは邪道だなんて、そんなことないんじゃないか? もちろんその結果シーンが均質化していくのはよくないけど。
この二連覇で終わらせたのは、お笑いのロジックvs感性、という対立だったのかもしれない。
感性だけでやるのがクリエイターではなくて、ロジックを手放さないクリエイターだってすごくカッコいい。と、信じたい。