これは詳細を省くが、やはりしばらくの間は出版メディアを見ていこうと思った。
いつでもサッと取り出して楽しむことができるし。画面のブルーライトに目をやられることもないし。外で読む時も、動画と違ってイヤホンをはめる必要がない。
昨日、Amazonで買ったKindle scribeが届いた。10インチあるKindle Paperwhiteだ。Eインクディスプレイだから目に優しい。で、漫画を見開きで読むことができる。
すばらしい……
電車に乗ってる時はKindle Paperwhiteで本を読んでいる。
いま、川上未映子と村上春樹の対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読んでいる。半分ぐらい読んだのだが、面白かったのは、村上春樹が徹底して「文章」に強い関心を寄せている点だ。
小説家なんだから文章にこだわるのは当たり前だろと思うかもしれない。そりゃそうだ。だがその代わり村上春樹は、ストーリーとか構成とかに、無頓着な(ように見える)のだ。対談の中でも、川上未映子が村上春樹の作品について「主人公の〇〇が〇〇するじゃないですか」と言うのに対し、村上春樹が「そうだっけ?」と返すシーンがたくさん--それはもうたくさんでてくる。全然ストーリーを覚えてないのだ。
彼は本の中でざっくり次のようなことを言っている。ストーリーに意味を持たせてはならない。作家がそのシーンの意味を理解して書くようじゃ最後だ。作家が描きたいテーマなんていくつかしかないが、それを毎回違う文章で書けば新しいものが生まれる。何を書くかなんてのは誰でも持ってるものだが、それを表現するための文体こそが大事なんだ。
それを読んで思い出したことがある。
去年、名古屋で「庵野秀明展」を見た。最初東京で開かれて、各地を巡回している展示だ。
庵野秀明が幼少期に触れた特撮やアニメが紹介されていて、それに影響を受けた彼の学生時代の作品も展示されていた。カッコいいロボット、カッコいいヒーロー造形、カッコいいカメラの画角、カッコいい爆発シーンの絵……要するに「カッコいい表現」を追求してきたんだな、と思った。そしてそれと同時に俺が思ったのは、「あのエヴァの意味深なメッセージ性や内省的な心理描写はどこから来たのか?」という疑問だった。あのエヴァを作り上げた庵野秀明の作家性はどこから来たのか?
あんな思索的な作品を作るのだから、きっとすごくいろんな物語や哲学とか思想に触れて、それをいろいろこねくり回してああいう作品ができたんだろう、と思っていた。しかし展示の中では、そういうテーマとかストーリーを生み出すに至った原体験とか礎となる物語みたいなものについては、全然言及されてなかった。
庵野秀明は徹底してカッコいい表現を追求した人だった。それでどんなテーマのアニメを作るかというのは、もしかしたら二の次だったのかもしれない。それよりも、カッコいい絵のアニメをつくるということが先行していたのかもしれない。それは僕みたいな凡人からすると逆のように感じられた。普通は何か伝えたいことがあって、それを達成するために表現を磨くんじゃないのか、と。
庵野秀明が追求したカッコいいアニメの表現、それこそが村上春樹のいう文体なのだった。
伝えたい内容/表現、という二項対立があるのなら、後者の方を磨き上げることで、前者をよりいい形で出すことができる。よく考えれば当たり前だ。
でも、ハリウッド映画とか、よくまとまったものばかり見てると、どういうストーリーにするか……前者の内容の方にばかり意識が向いてしまう。
いや……ちょっと筆が滑ってる気がする。必ずしもそうではない。俺が言いたいのは、
俺みたいな凡人は、表現ではなく、どういうものを作るかという内容の方ばかり考えてしまう。そう、「考えて」しまう。手を動かすのではなく、頭を使ってしまう。企画を立てることばかりして、実際の制作は人にお願いしてしまう。
内容/表現、頭を動かす/手を動かす、企画/制作……
編集者とか、広告代理店のプランナーとか、テレビのプロデューサーとか、マスコミ業界の会社員ってみんなそうなのかもしれない。腕一本で「手を動かして」「表現」をすることができないから、頭を動かす。「内容」を考える。
一方で、藤本タツキは? 新海誠は? 藤井風は?
こうやって文章を書いていくうちにいろいろ思いついていく。手を動かすことで頭が動いていく。庵野秀明があのエヴァをつくったのも、手を動かしていったからなんだろうな、と今では思う。何を書くかを考えず、ただ文章を書いていく。いい文章を書こうと意識する。それは自然とリズムを生む。リズム=文体。千葉雅也『センスの哲学』は、「センスとはリズムを生み出す/見出すことである」と定義した。俺にリズムを作れるのか? それとも、リズムを作るのは諦めて、人に任せるのか。
そうこうしているうちに0時が過ぎ、2025年度が始まった。