仕事で疲れた深夜、家で「ひっかかりニーチェ」を見ていた。
永野が、「芸能界の刺激を知っちゃってるから、一般人と話しても全然おもしろくない、つまんない」と言っていた。まあそうだろうな。みんな盛り上げるの上手いからな。
それに対し、三谷アナウンサーが「芸能界はドーピングの嵐だから、一般人と話しても面白くないですよ。だから芸能界で友達を作るべきだ」って言っていた。
「ドーピングの嵐」とか「芸能界の刺激」とか、言葉がおもしろいなと思っちゃった。
で、それに対し、令和ロマンのくるまが「同年代であればもう友達だと思っちゃう」と話してた。「やっぱ同い年で生き残っている人ってそれなりに頑張ってるから、『自分とは違うな』と思いつつ、『こういう人生もあり得たんだ』と感動してしまうっていう話をしてた。
まずその感性の豊かさにすごく、こんな深夜に酒を飲みながら見るトーク番組に何を感極まってんのと思われるだろうけど、シンプルにいうと感動してしまったんですよね。M-1二連覇という偉業を成し遂げた人も、そうやって人を見てるんだーと。大谷翔平、羽生結弦、くるまなど同じ世代に生まれているということが、すごく嬉しいなあと思っちゃった。
まあ、確かにそう考えると世界を楽しめるのかもしれない。自分が高校生の時、あの人も高校生だったんだ、みたいな。確かにそういう想像ってありますよね。自分の場合、「こういう人生もあり得たかも」とはあまり思わないけど、一緒のタイミングで生まれて、一緒のタイミングで育っていったという、それは確かに共感のフックになるなと思った。
いいことだなと思った。同い年だと友達になれる気がする、っていう。
で、なんだっけな……そういうことを思ったりしたんだけど、どんどん忘れていくよね。言葉に残す気力もないというか。そういうのを放置してるから、どんどん流れていって、つまり残らない。それが嫌だからブログを始めたはずなんだよね。適当にでも言語化していくことは大事だと思ってて、大学の時にブログを開設したわけだけど、今はあまり書けてないし。忙しかったり、プライベートで疲れていると、そういう気力もなくなっていくよなあって思ったりとか。
「好き」のサンプリングから生まれるという希望
こないだ大好きなSTUTSのライブに行った。で翌日、余韻に浸るためにSTUTS関連のYouTubeを見ていたら、ふと、名曲「夜を使いはたして」の「元ネタ」の曲を紹介するショート動画に出会った。要はサンプリング元ってやつ。それをHIPHOP業界では「元ネタ」と呼ぶのだと学んだ。
その元ネタの曲は70年代のアメリカのR&Bみたいな曲で、確かに似てる。キーは違うんだけど、「夜を使い果たして」のあのリフ? あれが、ちょっと音が高くなったような感じ。「同じじゃん!」と思った。
もちろんたんにパクったとかじゃない。音楽全体としては全然別物。というか、そのメインのビートのほかに重ねた音もたくさんあるし、音像も全然違うし、そもそも雰囲気というかコンセプトが全然別。リリックも完全オリジナル。だからこれを同じ曲と思う人はいないだろう。でも、聞けば「これを元に作ったんだ」ということはわかる。
それがおもしろいなと思った。第一に、STUTSがこの曲を聴いて「いいな」と思ったから、それを元に曲を作ったという個人的な嗜好が反映されてるのがいいなと思った。
どこかで聞いたけど、HIPHOPのルーツは、1970年代にニューヨークのどっかでクール・ハークというDJが、なんかの曲のイケてる部分だけをループ再生し続けたことから始まった。……という、すごく原初的な、「この曲のここ好きだから何回も聞きたい!」っていう超単純な動機から始まっているというのがシンプルかつ熱意があっていいなと思っているのだが、それを思い出した。
「夜を使いはたして」もそういう「好き」のサンプリングから生まれたのかなと思いを馳せた。あれだけの名曲でも実は元ネタがあって、それにインスパイアされて作られた。完全なゼロイチなんて存在しない。どんなすごいものでも、最初のインスピレーションは先人のクリエイティブの中にあって、そこから作られていく。それってある種希望だなと思った。STUTSもゼロからじゃなく、何かの影響や環境の中でゼロイチを生み出してるんだっていうこと。
まあ、あらゆるクリエイティブに言えることだとは思う。『君の名は』だって「とりかへばや物語」が源流にあるとか言えるわけだから。イノベーションとは既存のアイデアの掛け合わせだと、シュンペーターも言っている。
クリエイティブとは「選ぶこと」である
「何を選ぶか」っていうのが大事なクリエーションだと思う。
例えば編集者だって、どのデザイナーさんに頼むか、どの著者さんにお願いするか、どのイラストレーターさんにお願いするか。それも一つのクリエーションだと思う。もちろん実際に手を動かす人への敬意は大前提だけど、誰でもいいわけじゃない。
STUTSもプロデューサーとして「なんの曲を元ネタにしてサンプリングするか」「このトラックは誰に歌ってもらうか」「誰にリリックを書いてもらうか」というイメージがあって、この人にやってもらいたい、と思って曲を作っている。その「選ぶ」という過程も大事な創作の一部。
こないだ、TBSラジオの「アフター6ジャンクション」のポッドキャスト限定コンテンツで、AIが出力したラップのリリックは実用に足るものか? という検証企画があった。その中でライムスターの宇多丸が「AIが作ったものの中から何を選ぶかは私のクリエイトなので」と言っていた。(下記、30:40ごろ)。
その発言が妙に刺さっていた。確かにそうだな、と納得したのだ。作ったのはAIだろ、というかもしれないけど、誰かが雑談のなかで発した言葉が創作に取り入れられるなんてのはありふれたことだ。
「選ぶ」のは超クリエイティブな行為だ。審美を見極めて取り入れるかどうかを判断するということ。逆に言えば、基準に達しないものを捨てるということ。
だから「選ぶ」という過程を軽視する人を見ると嫌だなと思う。こないだも仕事でそんあことを思ったことがあった。素材を集める、スタッフの座組を作る、っていうのは大事なことだと思う。できる人なら誰でもいいとはならないでしょ。
31年目のクラシック・HIPHOP
HPHOPについて興味が湧いたついでにYouTubeを掘って行ったら、ヒップホップの歴史を解説するチャンネルが出てきた。その中で出会ったのがナズ(Nas)の『Illmatic』。
ニューヨークのクイーンズ出身のラッパーで、彼のアルバムがヒップホップに膨大な影響を与えたという話だった。そのアルバムジャケットを見て、面白いなと思った。ナズの子ども時代の顔写真が半透明になって、町の写真に重ねられているデザインなのだが……「これ、どこかで見たことあるな?」と思った。
それが漢 a.k.a. GAMIのアルバム『導〜みちしるべ〜』のジャケット。見ればわかる。めっちゃ似てる。「Illmatic」のリスペクトなんだろう。
あと、「Illmatic」という言葉もどこかで聞いたことがあった。BUDDHA BRANDの曲。「人間発電所」に「Illmatic buddha MC's」というワードが2回ほど出てきていた。これが想起されたのだった。よく思い出したな……。というか調べたら、そもそも「人間発電所」はIllmatic buddha MC'sという名義で発表した曲だったのだと。ちなみに調べたら、「DON'T TEST DA MASTER」にも「I'm Nas のように Illmatic」というバースがある。
で、Apple Musicで『Illmatic』を聴いてみたら、昔の曲なのに、今聴いても全然かっこいい。むしろ今でも新しい。クラシックって、後発に影響を与えすぎて今見ると陳腐に見えることがあるけど、『Illmatic』はそうじゃなかった。特に「The World Is Yours」のトラックがめちゃくちゃかっこよくて、今朝の通勤電車でも聴いていた。
そんな「Illmatic」は1994年4月のリリースで、今年で31周年だった。僕や令和ロマンくるま、大谷翔平、羽生結弦たちと同じ学年だった。ね、話がつながったでしょ。