研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「天気の子」ネタバレ感想ーー俺たちの新海誠に感謝

白昼夢、のようなものだったのかもしれない。

 

陳腐な人物描写、都合のよい強引なシナリオ、くどいほどの企業タイアップ……そのどれもにうんざりしつつも、他方で僕はあまりの気持ちよさに、顔面をだらしなく弛緩させながら白目を剥き、喉を鳴らして幾度も生唾を飲んでいた。俺たちの新海が帰ってきた――それも、見たことのない世界を引き連れて。

f:id:liefez:20210210083855j:image

2016年、「君の名は。」を公開初日だか翌日だかに観た僕は肩を落とし、俺はなんのために生きてきたんだろうと思っていた。大学1年のときに秒速5センチメートルを見て。その後、言の葉の庭を見て。ほしのこえを見て。静岡の三島で行われていた新海誠展にも行って、サイン会でファンレターも渡した。

 

決して古参ではないけれども、デビュー当時の評論なんかも読んで遡行的に新海が業界に与えたインパクトを学んだ。親しみのある街がアニメとして登場する心地よさや、ひたすら感傷的な独白をつづけていく主人公、やたらと理想化され美化された街と空の美術、そういうものすべてが僕に刺さった。まるでこの監督は僕のためにアニメをつくっているのではないかとさえ思った。そんな新海誠が東宝と組んで予算をかけてつくった作品がどんなことになるのか、ワクワクしていた。でも見た結果の感想はこうだった。

 

「面白かった。……ふつうの映画として」

 

そこには僕が待ち望んでいた新海はいなかった。夏の、若者むけの、一般大衆向けの商業アニメがただそこにあった。

 

あれから3年、新作「天気の子」公開から1週間が経った。まあ、見ないわけには行かないよな――ほとんど期待せずに劇場の入口をくぐった。

 

「あの日、私たちは世界の形を決定的に変えてしまった」

 

トレーラーではいまいちピンときていなかったあの台詞が一点に収束し拍動した。そうか、これが新海のやりたかったことなんだなーーそうして僕は114分の夢から覚めた。

 

後輩の批判に対する応答

先日天気の子がつまんなかったと主張する後輩と喋った。主な内容はつぎのとおり。

 

「①人物描写が陳腐。金稼ぎのために箱ヘルかなんかをやるというのがありきたりすぎる。そしてそれを主人公が助けるというのもありきたりすぎる」

「②愛を感じない。なぜあの2人が好き合っているのかがわからない。動機が甘い」

「③最後、なんで3年間も離れ離れなのかがわからない。たとえ逮捕されて保護観察処分だったとしても、あれだけ勢いがあるならば警察のことなど気にせず会いに行けばいい」……

 

なるほどと思った。それはあんまり気にしていなかった。①については、それは新海だからしょうがないと思う面がある。クリシェ中のクリシェ、どクリシェなカットが多いのは君の名は。のときもそうで、あの御苑のボエムのバイトの先輩の薬指がやたらクローズアップされるのには僕もいささか閉口した。実はこの女性も結婚していて裏ではいろいろ抱えてるんや……ということを示唆しているんだろうが、あまりに陳腐な表現ゆえに制作側の意図が透けて見えてしまい観ている側が冷めてしまう、というのがあった。

 

しかし一部で言われていることだが、たぶんこういうのってエロゲのCGシーンみたいな感覚で入れているんだろうなという気がする。本田翼の声の芝居が下手くそだというのはトレーラーが出たときから言われていたことだが、一番露出の多かったあの「きみのそーつぉーとーりだよ☆」のカットはCG取得ポイントっぽかった。CGシーンというのがわからなければ、歌舞伎の「見得」といってもよい。新海誠の映画は、歌舞伎の見得の連続である。

 

それはともかく、箱ヘルがありきたりすぎるというのはまあ分かる。とはいえあんまりここを気にしても仕方がないのではないかと思う。マックジョブも風俗業も、(もしかしたらこの認識は差別的かもしれないけど)貧困の象徴としてよく知られている。この少女は貧困状態にありますよ、というのを示すにはこれ以上なく簡便なやり方だ。

 

もちろんそれを陳腐として批判することはできる。けれどもなぜそれが陳腐なのかといえば現実と限りなくイコールだからだ(と思う)。お金がないから性産業で働くというのは、フィクションにおける「よくあること」ではなく、現実における「よくあること」なのだとすればどうか。

 

しかし軽くググったところそういうのを示す調査は特に見当たらなかった。なんでお金がほしいのにマックのような低賃金の仕事しかしないのか、という批判に対しては「それが貧困だ」としか言いようがない。

 

新海と春樹に共通する「大学時代欠落問題」

②愛を感じないについても仕方がないとしか言いようがない。好きなものができたときにその障害を乗り越えるためにどう頑張るか、みたいなのが主題だと思うので、個人的にはここもそこまで重要な論点とは思わない。

 

Cutのインタビューにあったが、新海は天気の子を恋愛映画としてつくっているわけではないようだ。未知のものに触れて理解したい、という感情を初めてもった若者の話として描いたみたいなことを言っていて、それもいまいちよくわからない言い回しのような気もするが、いずれにせよ天気の子から僕が一番感じたのは、秒速5センチメートルのような切なさや甘さではなく、なんというか突き抜け感というか俺が好きなものはこれなんだ! と決めたら突っ走る信念みたいなものだった。

 

③なんで3年間会わずにいたのか。これは見ていたときは全く気づかなかったことで、いわれて初め疑問として浮上した。たしかにそうだ。物語の性質上、3年間を経過させなければ水没した東京が描けない(それを描かなければ帆高の選択の重大性を描けない)という理由もあるかもしれないが、僕はなにかそこにはもうひとつの理由があるような気がする。

 

気がするだけでそんなのはないのかもしれない。君の名は。だって、一段落してから3年間ぐらい経って2人は再会したわけだし、この演出こそお決まりのパターンとして使っているにすぎないのかもしれない。しかしそれならばなおのこと、なぜ新海はそれをお決まりのパターンとして流用したのか? という疑問が再浮上する。その答えはまだわからない。

 

だが答えへの第1歩として僕は、「大学時代欠落問題」というのを提示しておきたい。秒速5センチメートルは第1章第2章において、主人公の小~高時代が描かれる。最後の3章では社会人生活について描かれる。これは秒速が参照としている(と言われている)、村上春樹『国境の南、太陽の西』においても同様だ。2つの作品は小学~高校までの物語を綿密に描きながらも、大学時代の描写を周到に避けている。それが何を意味するのか? 

 

これももちろん、作劇上の問題というのもあるかもしれない(大学では遊んでました、では物語のピュア性がうすまる)。でもなんか……その空白期間には必要なものがあるような気がする。空白の3、4年には。

 

妄想で補完しろ

というのがおもに後輩に突きつけられた疑問への回答だが、そのほかにも変に思ったことはたくさんある。タイアップが多すぎるとか……しかしこれは監督が公開後に出演したjwaveのラジオで、「営業的観点からのタイアップではなく、映画に必要だと思ったから監督みずから許可をもらいにいった」ということが明かされている。

 

ぼくはどちらかというと流行り物とかを取り入れない、普遍性がある作品が好きだが、他方で今の時代にこそ刺さる作品というのも嫌いじゃない。監督もなんかのインタビューで、前者よりも後者の作品をつくりたいと言っていた。

 

2000年代初期の宇多田ヒカルの曲が使われている映画やらドラマやらがエモくてたまらない人が存在するという話を聞いたことがあるけど、天気の子もそういうものになるのかもしれない。そういう観点でみれば、彼のデビュー作のほしのこえはすでに、いまはなきあのガジェットを取り入れたことが比類なきエモさにつながっていたようにも思われる。

 

あとは僕が一番変だなと思ったのは、最初に代々木会館の廃ビルに行ったときの陽菜の「転向」だ。始めは「自分からあの仕事しようと思ったのになんで勝手なことすんの!」と起こっていたのに、1分後ぐらいに急に戻ってきて屋上に連れて行って「今から晴れるよ」。

 

? なにがあったのだろう。そこはちょっと気になった。まあでもなんだろう、同い年ぐらいの子供にお姫様みたいに扱われてムッとなって怒っちゃったけどでもあとから帆高の命をかえりみない勇ましさに惹かれて戻ってきたみたいな感じでしょうでしょうかね。

 

こんなふうに妄想で補完していけばたいていの脚本のアラはたやすくクリアできてしまうものだ。まあ批判への応答はともかくよかったシーンについて。というのはほとんど後半に詰まっている。具体的には田端の家に児相が突入してきたあたりからの展開に詰まっている。池袋での逃避行、そしてラブホでのあの3人の最後の宴感……あそこはマジでヤバかった。これはほんとうに新海なのか? という疑問とともに、これは間違いなく新海だ、という確信が同居していた。

 

助かるはずもない無計画な逃亡のなかで、精一杯にいまを生きようとするあのカラオケのシーン。まるで危機感のない能天気さ。いや、もしかするとみんなライフ・イズ・ビューティフルの父親のようにわかっていたのかもしれない。僕たちは早晩まずいことになる、と……なんだろう、このシリアスさは新海にはあんまりなかったような感じがするんだけど、でもこの切なさというか、頑張っている感? 前述したような突き抜ける感じというのが新海ぽかった。

 

新海が「君の名は。」で獲得した「突き抜け感」

というかもっと言えばこの感じはたぶん新海が君の名は。で獲得したもののような感じがするんだよね。そもそも新海の男主人公はあんまりがんばらないというか、がんばりたいんだけど頑張ることのできない俺を助けてくれみたいな感じだった(偏見かもしれないが)。でも言の葉の庭で少し脱皮して君の名は。の主人公はすごい主体性を発揮していた。そういうのがあったからこそ描けたのが天気の子の帆高だったという印象がある。

 

一部でゼロ年代エロゲの要素をふんだんに取り入れた~とか言われていて、そうやって過去の文脈とのつながりを語りたくなる気持ちはとてもよくわかるんだけど、でもたんにデータベースを再構成しただけというのでは監督も心外だろう。というのよりは、過去の新海作品と天気の子はどこが違うのか、という点に目配せしたい。

 

たとえば最後、陽菜を助けに行くために平泉成の静止を振り切ってぼろぼろの非常階段を登ろうとするが踊り場が崩落してしまう。言の葉の庭の最後のシーンではマンションの非常階段で主人公とヒロインが抱き合うシーンがあり、そのシーンは「ヒロインが」主人公に感謝を伝えるために階段を駆け「下りて」いくのだが、今回のシーンはそれとの反転した相同性を指摘されている。と同時に、足場が崩落した「としても」助けにいく、というのが、この直後の主人公の重大な決断を予告しているようにも思われる。

 

また過去作との比較では、雲のむこう、約束の場所がしばしば参照されている。日本が北海道と青森以北で分断されているという設定のSF作品で、実は平行世界の要素もあり、君の名は。っぽくもある(実際には作中で平行世界が描かれることはない)。なお、本作でも新宿の様子がばっちり描かれており、新海の新宿界隈へのオブセッションがすでに投影されていることがわかる。

 

それはともかく、雲のむこうは主人公がヒロインを助けるために空に飛んでいって、ヒロインも世界も救うという話だった(厳密には違うけどおおざっぱにいえばこういうことになる)。でも今回はヒロインを助けようとすると世界は救えないという二者択一状態になっている。これを回避してどっちも救うということができないんだよね。これが僕は天気の子で一番いいところだと思った。

 

だれか一人を人柱にして世界を救うのではなく、ヒロイン一人を救うために他の全員を犠牲にする。とてもいいじゃないですか。なんかブレーキがないよね。ちょっと大人になるとむしろ逆じゃないですか。世界を救うためにヒロインが犠牲になっちゃって、周りのみんなは幸せなんだけど主人公だけは世界から取り残されたかのように孤独にヒロインを追悼してく、悲しみを抱えて生きていく、みたいなのに行きがちじゃん。そうじゃないんだよね。そこがいい。僕は「天気なんて狂ったままでいいんだ!」のところで絶頂した。

 

そして2人を称えるかのようにかかるグランドエスケープ。最高にきもちがよかった。なんだろう、帆高ってあんま雨好きじゃないと思うんだよね。実際池袋のホテルで陽菜に「晴れてほしい?」って聞かれたときに「うん」って即答しているし。

 

もし「天気の子」がノベルゲームだったら…

もしこれがノベルゲームだったらあそこは重大な分岐点になっているだろうななどと思うわけだが、とにかくあの雨やんでほしいっていうのが重要だと思った。冒頭、東京行きのフェリーでスコールが始まったときに甲板に飛び出るシーンがあって「雨だ! いえーい」みたいな感じだったけど、さすがに連日続く豪雨を喜ぶほどのサイコパスではなかった。が、しかしヒロインを救うためなら豪雨が永遠に続いてもよいと考えるぐらいにはサイコパスであった。これがよい。帆高にとって雨はあくまで負の要素なんだよね。だからそれは選択に伴う責任というか、リターンに対するロスとして位置づけられている。

 

その前のイベントトリガーとして、ホテルでの質問がある。あそこで「うん」を選択してしまうことで、陽菜は自分がいてはいけないんだと思って消えてしまう。帆高はそれを察知して、自分はひどいことを言っちまったんだと気づく。あのYES or NOも重要な決断だった。その責任も引き受けなきゃいけない。そこからがほんとにいい。やっぱり雨は降ってていい、ってすごい自分勝手なんだけど、それがいい。「空とつながっちゃってる」とかもなんかもう訳わかんないぐらいいい。

 

池袋から新宿に行くのもいい。目白あたりから線路を走るのもすごいいい。御苑でこっそり酒飲むとかじゃないんだよな。走るんだよ、怒られても! あのへんも背景はめっちゃリアルで……新大久保→代々木の電車は何百回も乗っているからなんか気持ちが良かった。そうか、あそこを走ると電車の窓から見える景色とはちょっと違ってあんな景色が見えるんだな、とか。

 

それはともかく何がいいたいかというと、ちゃんと選択には責任が、リターンにはロスがあるっていうことが描かれているのが天気の子のよさだった。ヒロインも世界も救うのではなく、ヒロインを救う代わりに痛みを引き受ける、そういう厳しさが天気の子にはある。それがこれまでの新海にはないよさだと思った。

 

いやーほんと厳しいんだよな。最後、「僕たちは大丈夫だ!」っていう謎セリフで終わるじゃん。何? 何が大丈夫なの? 陽菜も100%の晴れ女じゃなくなってるし……ぜんぜん大丈夫じゃないんだが、それでも無根拠に大丈夫だと言い張るあの力強さよ。あれはまったく意味不明なんだけどよい。意味わかんないけどすごい好き、というのはもはや感想になっていないのだがそうなのだから仕方がない。なんとなくだけど、あの訳わかんなさこそ、新海が君のは。で批判を受けて吹っ切れたものだという気がしている。

 

首都沈没と『アースダイバー』、そして人新世へ

あと東京を沈めたのはほんといいなと思った。トレーラーが公開されたときから東京タワーが映っていてそれが嫌だった。上京した主人公が東京タワーを見て東京だあって思う、そんなんでいいのかという気持ちがあった。だって新海は新宿の人じゃないか。あんだけドコモタワーに偏愛があったのに、なぜ、と思っていたけれど、そうか最終的に水没するからそれでいいのか。

 

中沢新一『アースダイバー』所収のアースダイビングマップによれば、縄文時代の東京は皇居以東がほぼ海だが、東京タワーがあるところはギリギリ土地がある。だが実質半島化しているので作中ではランドマークとしての機能はほぼ停止しているとみてよいだろう。なおこのマップによれば池袋と新宿は広範に土地があるのだがすり鉢状の渋谷は湖畔になっている(どんだけ信憑性があるかは知らない)。

 

ところで新海の主人公はだいたい運命に翻弄されていくものだったけど今回は自分きっかけで天気を変えてアントロポセンに本格突入、みたいなすごいアグレッシブさがあり、なんというかやるなら中途半端ではなくここまでやる、というのがいいと思った。「僕たちのやったことに学術的な名前がつけられている!」みたいな……そんなこと思ってるのかどうかはわからないけど、そういう自己の高ぶりも含めてよい。どんだけ自分の能力や影響を高く評価しているんだよ、という……

 

 

7月28日、グランドシネマサンシャイン池袋で鑑賞。せっかくだからということで関東初のIMAXレーザー/GTテクノロジーを選択。ふつうのIMAXは1.9:1の比率だけどこいつは1.43:1という、通常より縦にデカい画面で見ることができる。最近追加されたあの、草原から急に天気が悪くなったかと思えば弾丸が飛び交う戦場にいて、かと思えばマグマがぐつぐつ煮えてる洞窟を突き進み、最後は宇宙船のハッチが開いて無音の真空へいざなわれ、そこに浮かびあがる「IMAX」の4文字……っていうトレーラー(ググっても出てこない)が始まったときにすげえ! 縦にデカい! と思ったけど天気の子はそもそも70mmのIMAX用に作られてないからフツーにアス比がワイドだった。2700円のチケットだった。