コメダ珈琲で内省しようと思ったら並んでいたので、近くのドトールに入った。前から前を通りがかっていた店。狭い。大方のドトールと同様、そんなに清潔な感じもしない。テーブルの質感など、古さを感じる。そして安い。安さの理由がはっきりわかるから、変に詮索しなくていいのが気楽。
昨晩、言葉にならないモヤモヤがついに閾値を超えたのか、脈絡のないことを口にしたり(いつものことかもしれない)、寝てる途中に突然バッと起きてベッドを連打したり(いつものことか?)した。ま、いつものことかもしれない。でも確実に、自分の中にめんどくさい感覚が溜まっている気がした。
……などと抽象的に書いているが、要するに、平日は仕事、休日はパートナーとの用事などで、自分一人の時間というのがあんまり取れていないのがまずいんだと思う。
3年前とかの自分が読んだら調子に乗るなと怒るようなことを書いているな。むしろ自分の時間「しか」なくて困っていたんだから。
平日も、自由な時間がまったくないわけではない。のだが、虚無顔でYouTubeを見たりとか、結局はそういう感じ。いやそれでいいじゃん、という考えもあるでしょう。でも本当にやりたいのはそうじゃなくてさ、映画見るとかそういう……んー、なんか、自分でも何をしたくなってるのかよくわからない。映画見たいなら今すぐ行けばいいのにさ、なんで仕事の積み残しを日曜日のうちにやっておこうという思考になるんだろう。別に土日にやらないと超やばいぐらい立て込んでいるというわけでもない。
仕事と生活の脱構築
そろそろ一人旅でもしないと発狂しそうな気がする。でも先月、新しいiPhoneを買ったから、クレジットカードの請求額が過去最大級に積み上がっていて、生活用の口座の残高も危機に瀕している。だから最近節約しているんだけどなー……。最後に一人旅をしたのはいつだろう? 出張や近場のお出かけならすぐに思い出せるのだが。
積み残っているタスクがある状態で旅行に行っても楽しめない、という懸念もなくはないのだが、結局のところ、「やるべきことゼロ」の状態にするというのは今の仕事をしている以上不可能。うっすら仕事のことが片隅にある状態だとリラックスできないというのは真理だと思うが、一方で、「うっすらオン」で休日を過ごすことにも(半ば認めるのも悔しいが)慣れてしまった。それどころか、「うっすらオン」だからこそ、休日のバカンスが仕事によい刺激やフレッシュな発想をもたらすのだ、などと主張しそうなところまで来ている。休みが仕事に内包されるようになったらおしまいだ。「休むのも仕事のうち」。ふざけるな。まず生活があって、仕事があるんだろう。
でも改めてこの杉咲花の発言を見ると、ちょっと違う感じもするよな。「休むのも仕事のうち」ではもちろんないのだが、「仕事は生活のうち」とまで言ってるわけでもなさそう。その二項対立を調停する第三の考え方というか……もちろん生活が「従」で仕事が「主」ではない。それは前提なのだが、かといって生活が「主」で仕事が「従」という感じでもないというか……や、むしろ後者の整理で合ってるのか? でも単に「半身で働こう」というだけでもない、新しい軽やかさをもった表現な気がするんだよな、上記の杉咲花の発言は。ビジネス書界隈の文脈で言えば「ゆるストイック」みたいなことなのかもしれない(概念としては全然流行ってないですが)。
日記 vs AI メンタルにいいのはどっち
精神科医の樺沢紫苑が「メンタル悪い人は日記を書け」「書けば必ず良くなる」とか言ってる動画のキャプチャ画像がXのタイムラインに流れてきた。実際そうだろうなという感覚がある。去年、つまり2024年は1年間にわたり、土日の日記をつけていた。三連休や長期休暇があればそれも日記にしていた。それを読み返して思い出にふけったりしているわけではないのだが、書き残すという行為それ自体に意味があったような気がしている。端的に申し上げて、やはり、「吐き出し」にはメンタルによい影響があった。
日記を書いていたのはUpNoteというアプリだった。Evernoteが改悪を続けるなか、新海誠が導入したとXで報告していたので、2年ほど前に導入した。自分だけが読むことができるアプリで日記を書くことには利点がある。いくらでも実際のことを、実名込みで書けるということだ。これがブログだとそうはいかない。相応の配慮が必要になる。当たり前だ。自分だけのノートならそんな配慮はいらない。というか、日記に配慮が必要などというのがそもそもおかしいわけだが。
じゃあなんでブログで書くのかと言えば、誰かからの反応があるからですよね。具体的なコメントじゃなかったとしても、はてなスターとか、noteならスキをもらえるわけじゃないですか。それがあると書いた充足感があるから、ネットに公開する。でも上記のようにプライベートをマスキングしないといけない。というわけで近年台頭してるのがAIセルフカウンセリング。僕もこの2年ぐらいめちゃくちゃ活用しているわけだけど、最近、悪い意味でAIやばいということも言われるようになった。
「吐き出し」で思い出したのだが、コムドットのやまとがまた本を出すらしい。
すごく端正なデザインだけど、これで売れるということなんだろうな。すごいわ。作者は「コムドット・やまと」ではなく、実名の鈴木大飛になった。大飛で「やまと」と呼ぶことを初めて知った。
なぜ「吐き出し」でコムドットやまとのことを思い出したのかというと、彼の前著の『アイドル2.0』で「私のモットーは”吐き切り”にある」ということを言っていたからだ。要は、言いたいことは全部言って、同じことはもう言わない、ということ。まあ大切なことだよね。出し惜しみしてもいいものは生まれない。全部出し切ったからこそ新しいアイデアが生まれる、っていう。まあそれもある程度なにかを生み出す仕事をしている人からすると相当クリシェではある。
コンテンツへの情熱が失われているのでないか
見知らぬ他人と隣同士になることへのめんどくささが肥大化している。たとえば映画館。土日の昼間など、混んでいる時間に座席を見ると、どうしても人と隣同士になってしまう。だから僕がいつも座るのは、スクリーンに向かった時の、左よりにある通路の、右側の座席……要は左隣が通路で人と隣接しない端っこの席を選ぶのだが、やっぱりそういう席は人気だったりもする。
で、結局、混んでるならいかなくていいやと諦めてしまったりする。ちょっと前まで、MCUは公開初週に見に行っていたのに。隣に人がいるなんて気にしていなかった。いや、気にしていないというのは嘘かもしれない。でも、人がいたとしても、自分が見たいのは映画だったわけだし、どんな楽しい映画なんだろうとワクワクして足を運んでいたから、隣の人なんてそんなに気にしていなかった。それに、むしろ、人混みで混雑している映画館は、むしろ「いい」とさえ思っていた。なぜなら大衆の反応を直(じか)に感じられるから。面白いシーンで笑い声が漏れたりとか、そういう感情の反射を共有できるのが映画館というリアルの魅力でしょ。
とか思っていたのだ。かつての僕は。
それがどういうことだろう。
似たようなことは他でも起きている。飛行機や新幹線の座席がそうだ。かつては、問答無用で窓側の席を選んでいた。ところが今は当然のように通路側の席を選んでいる。知らない人と隣り合いたくないからだ。それに、トイレに行きたいと思った時などに、速やかに出たいからだ。窓際にいると、尿意を催しても閉じ込められているような気がして嫌なんですよ。
……とはいえ、そういうトラウマ体験があったかというとそういうわけではない。でも以前、出張の帰りの新幹線で、混んでいたから3列シートの真ん中しかなくて、そこに座ったら、隣のおじさんがビールを開けて弁当晩酌を始めた時には、ちょっと嫌な気持ちになった。弁当晩酌は自由だが、この狭い座席のすぐ隣でおっ始めないでほしい。という、まあ、繊細ヤクザのお気持ち表明スラッピングであることは自覚しています。
いずれにせよ、他者との距離感に敏感になってしまっているのは確かだ。僕はそういう、コンテンツとは無関係の、外側の状況を言い訳にして退屈だなんだと文句を垂れるつまらない人間に、確実になってきている。
しかし即座に、それを否定する別の因子を発見する。僕は目の前の目的に対して、真剣さを欠いてしまっているのではないか? 情熱を失ってしまっているのではないか? 以前は、満席で両隣に人が座っている劇場でも、気にならなかったのだ。なぜなら映画を楽しみにしていたから。あの日、T・ジョイプリンス品川で公開初日に観たエンドゲームなんて、隣の人がどうだったかなんてどうでもよかった。飛行機だって、帰りの便で窓から見える夜景が楽しみだったから、多少窮屈だったとしても窓側を喜んで選択していたわけだ。
デメリットが目につくようになったのは、デメリットが肥大化したというよりも、メリットのほうが縮減してしまったということなのではないか?
とか書いてたらドトールもお客さんでいっぱいになってきた。この狭い喫茶店が繁盛してる。まあ、スタバもコメダも満員なのだからここが空いてるということはないか。でもこの、飲み屋ばっかりのエリアで、日曜朝にコーヒーを飲む人が集まる店というのはなんだかいい感じである。