研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

一期一会2.0 ~そして3.0へ~

『一期一会』

一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意。もと茶道の心得を表した語で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきことをいう。
(goo辞書より)

 

 

 こんなこといちいち書かなくても当然みなさんご存じの四字熟語ですね。いろんなところで出会うひとに対して、

 

「このひとと会うことはもうないかもしれない」

 

という考えのもと、誠意を尽くすということですね。
たいへんすてきな考えだとぼくは昔から思っています。

 

たとえば、ぼくの好きなUVERworldの『NOWHERE boy』という曲は、一期一会の大切さを歌っていて、とても好きなんです。ぼくはこれを大学受験の勉強の合間にいくどもいくども聴いていました。

 

一部を引用します。

 

ひょっとして僕は今もそんな風に 出逢う人達との距離感が分からずに
パタンと心を閉じて あの頃の様に消えてって
誰かを悲しませていないか

 

すれ違った人 引き止められなかった人と もう一度出逢い直せるなら

心からの感謝と心からのサヨナラを 今なら伝えれるのに

 

nowhere boy この世界で巡り会えることはこれっぽっちしかないのにな

誰も気づけず大切な人の横を

nowhere boy この世界で巡り会えることはこれっぽっちしかないのにな

誰も気づけず大切な人の横をただ通り過ぎて行く

 

先に逝ってしまった 二度と逢えない人に
もう一度 出逢えるとしたら
逢いたくて 逢いたくて その日が訪れるまで願う

 

追いかけて 追いかけて 通り過ぎた出逢いには追いつけないから
こぼさぬように もう こぼさぬように
此処にある 大切な出逢いを抱きしめる

 

 

とまあこれはこれでとてもいい歌詞なんですが、


話は変わり、僕が大学生になり、バイトを始め、初めての接客でいろいろたいへんだった時、ある価値観の変更が起きたんですね。

 

接客をしているとき、なんらかのミスを犯して、お客さんの前で恥ずかしい思いをしたり、あるいはお客さんに恥ずかしい思いをさせてしまったり不快な気分にさせてしまうことがありますよね。

 

たとえばぼくのばあい、「ココナッツミルク置いてますか?」とお客さんに訊かれ、「いやーココナッツミルクは当店取り扱ってないですね。申し訳ありません」と答えたものの、あとで探してみたらふつうにデザート売場にココナッツミルクがあり、まだお客さんが店内にいるから教えるべきだろうかと思ったけど、さっき「ありません」って言ったのを撤回するのも嫌だから黙っておき、お客さんがココナッツミルクの存在に気づかないまま店を出ることを願う……みたいなことです。

 

この出来事が起こって、ぼくのなかで「一期一会」という言葉の定義がアップデートされたのです。

 

すなわち、

 

「世の中で出会う大抵のひとはもう二度と会わないひとなのだから、誤って不誠実な態度をとってしまっても気に病む必要はない」

 

ぼくはこれを、

 

「一期一会2.0」

 

と呼ぶことにしました。

 

むろんこの定義がほんらいの意味から遠く離れて……どころか転倒しているということは分かっています。けれどもこの一期一会2.0は、世界とくらべてサービス過剰な日本の接客業に従事するひとびとを精神的に解放する、きわめて大切な価値観たりえるのではないか、というのがぼくの考えです。

 

コンビニ、ファストフード、居酒屋……日本のサービス産業には徹底した「おもてなし」が求められ、店員のひとたちは優れた商品と疲弊した笑顔を消費者に提供しつづけています。

 

ぼくはバイトを始める前までは、コンビニの店員の雑な対応(おつりを押しつけるようにして手渡す、客の目を見ない、など)にいささか問題意識を感じていました。
もっと誠実に接客しろよ、とか、店員教育がなってない、とか。

 

けれどもほんらい問題であるはずなのは、べつにサービス料とかを支払っているわけでもないただのいち消費者のぼくが、店員のほんのささいな行動に問題意識を感じているという、そのこと自体なのです。

 

つまり、日本の接客はサービス過剰、といわれる背景には、消費者がそのような「過剰」なサービスを求めている、という真実があるのです。求められているから、そうせざるを得ないのです。サービス業界に問題があるのではなく、消費者側に問題があるのです。

 

「べつにコンビニの接客なんてもっと気楽でいいジャン」

と思われるかもしれない。けれども、多くの日本人は「気楽な接客」に多少なりとも違和感というか、何かこれじゃない感を感じてしまうのです。

 

ぼくはバイトを始めてから、そこらへんには寛容になりました。東南アジア系の外国人の接客が冷たくても「大変だよな。言葉も難しいし。日本人の俺でさえ接客大変だもんな」と、心のなかに余裕ができました。いち消費者に過ぎなかったぼくが、接客業を体験することで、「許し」みたいな選択肢が生まれたのです。さらには、コンビニの店員さんに「ありがとうございます」って言ったりするようにもなりました。
この「許し」を日本人全員のなかに注入することに成功すれば、さっき述べた「消費者の側の問題」は解決するのではないでしょうか。

したがってぼくの政策提言としては以下のようになります。

 

「中学生の職場体験で、一週間の接客業体験を義務化する」

 

これしかありません。税務署とか区の福祉課とか行ってもどうせ職場案内みたいなので終わるだけなので、どうせならここで労働の大変さを知った方がはるかに将来の役に立つのではないでしょうか。

 


話が大いに脱線しました。

 

一期一会の話に戻すと、一度は2.0にアップデートを果たしたぼくですが、ある日、またしてもバイト先で起こった出来事によって、ぼくはふたたびこの四字熟語に対する態度変更を迫られたのです。

 

半年ぐらい前、ある女性が職場に入ることになりました。そのひととは一回だけ一緒のシフトになっただけで、あんまり話すことはありませんでした。でもシフトの交代のときとかにちょっとしゃべったりして、それでいいひとだなあとか思っていました(「いいひと」というのは恋愛感情ではないです)。

 

で、最近、その女性が職場を辞めることになりました。そのことをひとづてに聞いたときは、ぼくとしては「ああ、そうなんだ」とあっさりした感じでした。

 

その数日後、地元を歩いているときにその女性に会いました。ぼくは気付かなかったのですが、向こうから呼び止められて、「あっ! お久しぶりです」と言いました。それで彼女が職場を辞めたこと、お店に顔出しに行くね、バイトがんばってね、みたいなことを言われてさよならしました。

 

ぼくのなかに何かもやもやが渦巻いていました。

 

その次にバイトの日、ロッカーに一枚のメモ用紙が置いてありました。あの女性からでした。いままでありがとう、みたいなことが鉛筆で書いてありました。ぼくはそれを読み、いままで感じたことのない感動を覚えました。ひとはこんなにもひとに優しくなれるのか。……そういう戸惑いさえありました。

 

今考えるとそれは別に優しさとかとかよりも社会的な礼儀によるところが大きかったわけですが、そういう社会的な場に全然出たことのないぼくとしては、けっこう印象的なことだったのです。

 

この出来事から思ったのは、ひとは、ちょっとでもお世話になったひととの別れを惜しむ、ということでした。

 

これがたった一ヶ月程度の知り合いだったら何か微妙だったかもしれませんが、半年ぐらい一緒に働いたひとから挨拶の手紙を渡されるとグッとくるんですね。
一期一会とまで行かなくても、ちょっとの間お世話になった人には誠意をもってお礼をする。

 

一期一会1.0が出会っている最中の態度にフォーカスした言葉ならば、「一期一会3.0」は、出会った後の別れの態度にフォーカスした言葉になります。

 

一期一会3.0は、もう会えないかもしれないひととの別れ際に「ありがとう」と伝える、そんなささやかだけれども大切な気持ちの素敵さを伝える、そんな言葉です。

 ここでもう一度、冒頭で引いた歌詞の一部を貼っておきます。

すれ違った人 引き止められなかった人と もう一度出逢い直せるなら
心からの感謝と心からのサヨナラを 今なら伝えれるのに

 

以上でぼくの一期一会を巡る考察を終わります。