11月が来るたびに、物悲しい月だなと思う。日増しに寒くなるし、日照時間は減っていく。生命が停止に向かって急降下していくのを実感する。こういう時にやるべきなのは、太陽が最も陰りなく注ぐ南中のタイミングで外出することである。
というわけで、清澄白河の清澄庭園に行ってみた。紅葉が見れるんじゃないかと思って。
入園料150円を払う。
ぜんぜん紅葉してなかった。
でも、いい天気の下で、緑に囲まれるのは気持ちがいい。
陰影も映えますね。
鴨や白鷺もゆるりと過ごしている。
飛び石、いいですよね。いつも、誰か池に落ちてしまったりしないのだろうか、と思うのだが、だからと言って柵や囲いをつくるわけにはいかないわけだ。この庭園の管理者の人が、安全と美観を天秤にかけたときに、決着がついたのはおそらく一瞬だったのではないだろうか、というのを想像する。
何かを眺めている人の後ろ姿を撮るの好き。
あと1ヶ月耐えれば未来は明るい、その理由
冬はマジで日光浴びてセロトニン分泌しないとうつになる。最近読んだ記事で、デンマークや北欧の建築は、吹き抜けの上にデカい天窓をつけたり、部屋の奥の方にも日光が当たるように工夫したりしていると知った。冬は日照時間が短くて冬季うつになる人が多いから。その対策で、日光浴マシーンを設置している企業もあったりするらしい。すごいな。それだけ日光は大事なわけです。
秋の夕暮れは物悲しい。古今和歌集とか百人一首でも、下の句で「秋の夕暮れ」って歌ってる歌がいくつかあった気がする。なんでセンチメンタルになるんでしょうね? 地軸の傾きによる秋特有の光の屈折率によるグラデーションが人間の物悲しさを刺激するスペクトルで……とかいう仮説を思いついたけど、そんなわけないか。
たぶん単純に、これから長い夜が訪れることを予感させるから悲しくなるんだろう(と、恵比寿のマクドナルドでコーヒーを飲みながら考えた)。もう日が暮れたのかと。もう活動時間が終わるのかと。明日は今日よりも日が短くなる、という未来が確定しているから悲観的になってしまうのだ(と、隣で制服の女子高生が模試の判定の話をしているのを聞きながら考えた)。
だが、冬が来ちゃえばもう「底」だからね。今年の冬至は12月22日。そこまで耐えれば、あとはもう日増しに日照時間が長くなる一方だから。もう上り調子よ。「勝ち」よ。
いま、冬至について検索したら、「冬至十日経てば阿呆でも知る」ということわざがヒットした。「冬至を十日も過ぎればめっきりと日が長くなるので、どんなに鈍い人でも気づくということ」らしい。しかし冬至の10日後って、正月付近ということだよな。正月ごろに「日が長くなったなあ」って感じること、あるか? 少なくとも自分はない。
しかし、理論的には、確実に日は長くなっている。
正月になって「日が長くなったなあ」って感じられるのって、素敵な感覚だな。自然のささいな変化に、それもポジティブな変化に、敏感。木の芽吹きにいち早く気づく人というか。アーリーアダプター(?)。そういうふうに小さな喜びを謳歌しよう、とたぶん2年ぐらい前のブログに書いた。
それがいまはどうだ。ネガティブな出来事、心理ばかり内省して分析して言葉にして……
まあそれも大事なんだけど、いいこと、楽しいことを思い出すのも大事だ。当たり前か。