例えばここに対人関係に不安がありなかなかアルバイトを始めることのできない大学生がいるとします。彼は同じ大学生でアルバイトをしている友人から早くバイトを始めるようにしばしば説教されるのですが、それでも求人探しに踏み切ることができません。彼はそんな自分を情けなく思います。それと同時に、情けなく思うことがバイトを始められないことへの反省だと考えている自分に対して憤りを感じています。さらにそれと同時に、そんな憤りを感じているだけで結局行動に移せていない自分に悲哀さえ覚えます。そしてさらに、最終的に自分に対する絶望で終わってしまう一連の思考の流れ全てを唾棄すべき物だと思い、なにもかもどうでも良くなります。
この話で彼は徹底してメタ認知を行った挙句、かわいそうな結末を迎えることになっています。このような経験を誰もが一度はしたことがあると思います。これに陥らないためには意識的にメタ認知をやめるべきだと思います。
Googleで「メタ認知」と検索すると上から4番目にNAVERまとめの「誰もが身につけたい!ちゃんと学ぼう『メタ認知』」という記事が出てくるのですが、トピックセンテンスには「仕事ができる人はみんな身につけてる『メタ認知』。知ってますか、その能力。鍛えることができる『メタ認知』をきちんと知って鍛えましょう!」と書いてあります。
僕の19年間の稚拙な経験から言えば、メタ認知は仕事の効率を下げると思います。例は最初にあげた通りで、メタからメタメタ、メタメタメタと快調に高階移動してくと最終的には超越的自己による経験的自己への暴力に耐えきれず、破綻します。従ってメタ認知はあまり歓迎すべき試みではないというのが僕の結論です。
メタっていうのはきわめてリスキーな観念で、一方では既存の領域・尺度では見出せなかった新たな考えを導き出すことのできる優れたツールなのですが、他方では果てのない自己問答の末の絶望に自身を招き入れる恐ろしい思考の枠組みなんですよね。
東浩紀『弱いつながり』で言及されていた慰安婦問題のメタゲームというのは、メタの良くない部分を象徴しています。実際に慰安婦だった人が存在するのは"置いといて"、「そもそも強制連行の定義ってなんだよ」「従軍という言葉の意味とはなんだよ」とかいう領域に発展していて、もはや現実的な解決を模索する話から逸脱していると。