ピエール・バイヤールの主張は明快だ。「本は通読する必要はない。むしろ場合によっては、読まないほうがいいこともある」
本書はその理由を長々と書いているに過ぎない。したがってこの本自体、気合を入れて精読する必要はない。
本書のアマゾンレビューを見ると、「テクスト論について書かれた本であり、単なるノウハウ書ではない」というものが上位に来る。
分かる。あらゆる書物は作者の手を離れ、読者の解釈によって意味づけされる。作者は死に、宙吊りになったテクストには無限の可能性が開かれる。だから作者に誠実になろうとして本を読む必要はないんだよ。大丈夫だよ。流し読みしてあれこれ考えるのは文学批評的にも正しい態度なんだよ。……
まあそうなのだが、ここは小難しいことは考えず、ちょっと知的なビジネス書として読むのもいいじゃないか。
そもそもなぜ私たちは本を読むのか。ビジネスにおける会話で「それはまさに『嫌われる勇気*1』だねえ」などという言葉が相手から飛び出たとしよう。あなたは『嫌われる勇気』を読んでいない。話についていけず、恥ずかしい、あるいは悔しい思いをする。その夜、あなたは「もっと本を読まなければならない」と思い、八重洲ブックセンターで『嫌われる勇気』と『コンビニ人間*2』をレジに持っていったのだった……
このとき、あなたは世間話についていくために本を読むことになる。まあこういうことはよくあることだ。1ページずつめくって読んでいく。あなたは読書はじっくりするひとだ。一つのパラグラフを心のなかで音読する。そうして言葉をからだじゅうに染み渡らせていく。言葉とひとつになれる気がするのだ。お金を出して本を買った以上、その言葉が伝えるものはすべて自分のものにしたい。だからあなたは1ページ目から最後のページまで、ときには自分の読むスピードの遅さに苛立ちながら、通読していく。
しかしちょっとまってほしい。あなたは去年も似たようなことをしたはずだ。1年前、あなたは八重洲ブックセンターで『火花*3』を買い、同じようにして読んだはずだ。いま、『火花』の詳細なあらすじと感想を言えるだろうか。言えないだろう。
そう、私たちには生まれたときから「忘れる」という機能が備わっている。一度格納した記憶は、格納した瞬間から汚染されていくのだ。
かといって定期的に『火花』を読み返す訳にはいかない。世界では日々本が発売され続けている。読まなければならない本や読みたい本は他にもある。だから『花火』を何回も読む訳にはいかない。なぜならある本を読むという決断は、それ以外のすべての本を読まないという決断に等しいのだから。私たちはたえずそのような決断を迫られ続けている。
こうなると、もはや一冊一冊の本を丁寧に読むのは馬鹿らしくなってくる。だから私たちは、「読んだことのない本について堂々と語る方法」が必要なのだ。
さて、僕がこの本を読んで考えたことは3つある。1つは最近のノンフィクションの本について。もう1つはロバート秋山とタモリについて。そしてもう1つは就活の面接についてだ。
ノンフィクションの本について。
最近『「文系学部廃止」の衝撃*4』を読んだ。内容には特に触れない。なぜなら僕の理解はあくまで僕の理解に過ぎず、吉見俊哉の考えを100%トレースできているわけではないからだ*5。
そこで内容ではなく構成に目を向けると、どうもこの本は編集者の手によるページのかさ増しが多すぎるような気がした。吉見俊哉が一番言いたいことは「文系学問は役に立つ」ということとその説明だけであって、「人生で3回大学に入る」などということではないはずだ。
また、「これを生物に例えると……」「宮本武蔵に例えると……」といったおよそ不必要なアナロジーも散見される。こうしたテクニックを使わなければ理解が難しいというほど、議論は込み入ってはいない。
この辺りの項目は、編集者によるページのかさ増しではないかと僕は睨んでいる。きっと打ち合わせでは、「先生、本にするにあたって、もう少し何か説得的なお話を入れたくてですね……」といった提案などが展開されていたはずだ。ひょっとすると吉見俊哉ではなく編集者が書いている可能性だってある。
まあ昨今のノンフィクションは箇条書きにできるようなワンテーマを200ページも使って説明するのがトレンドだ。理由は2つある。ワンテーマの本を量産しなければ達成できないような出版ノルマが編集者にあることと、読者が読みやすく通読できる内容にしなければ売れないことだ。そういうわけでやむをえず、最近の本はとにかくスカスカになっている。
しかしこれはそんなに悲観することではない。一冊あたりの情報量が少ないということは、一冊あたりにかかる読書時間も少なくて済むということだ。つまり私たちは、本を流し読みしやすい時代に生きている。
実際、週に1冊ビジネス書を読むとして、じっくり読んでいられるだろうか。目次を読んでここは読む、ここは読まないという選択をしている人もいるだろう。なぜならそれが賢いからだ。いちいち全部読んでいたら疲れるし時間もかかる。だったら効率よく情報を吸収していったほうがいい。優れたビジネスパーソンはそのようなすばやい取捨選択のもとに読書を行っている。
しかし本の対象がビジネス書ではなく小説や難しい理論書だったりすると、なぜかそううまくいかなくなる。拾い読みはいつもしているのに、最初から最後までちゃんと読まなければならない気持ちになる……その心理的障壁を突破できれば、もっといろんな本を読めるのに。
僕がこの本を手に取ったのは哲学者の千葉雅也が推していたからというのもあるが、もう一つ理由がある。それはロバート秋山とタモリの思想に通じるものがあると思ったからだ。
ロバート秋山の「クリエイターズ・ファイル」という企画がある。これはロバート秋山が「メディカル・チームドクター横田涼一」「トータル・ファッション・アドバイザーYOKO FUCHIGAMI」などの架空のクリエイターになりすまして、「情熱大陸」風のインタビューに受け答えをするというものだ。
企画の趣旨を理解しておらず、かつロバート秋山のことを知らない人が見れば、本当のプロフェッショナルのインタビューとして読んでしまうだろう。そのようなリアリティを彼は演出しているのだ。
私たちはロバート秋山がこれを演技でやっているということを知っている。けれども味方によっては、それは真実味を帯びている。そこに可笑しみが立ち現れる。
タモリには「四カ国語麻雀」というネタがある。これは中国人、韓国人、なんとか人、そしてなんとか人(覚えていない)の4人による麻雀をタモリが一人で再現するというものだ。
彼の喋る言葉は中国語であったり韓国語であったりする。しかしそれは明らかに中国語ではないし韓国語ではない。ネイティブでなくても気づくレベルでデタラメなのだ。けれどもその巧みな抑揚の付け方や子音の発音が、そのデタラメな言語にリアリティを付与する。
私たちはタモリがこれを演技でやっているということを知っている。けれどもそれは、確かに、なんとなく、中国語であり韓国語っぽい雰囲気をまとっているのだ。そこに可笑しみが発生する。
この2人のやっていることはまさに「読んでいない本について堂々と語る方法」そのものだ。説明はこのぐらいにして、あとは実際に動画を見てほしい。
ロバート秋山 「クリエイターズ・ファイル」第5 回 メディカル・チームドクター横田涼一インタビュー映像①
就活の面接について。
人生80年だとして、20年しか生きていない若者は、人生という本の25%しか読んでいないことになる。つまり就活の面接では、「25%しか読んでいない本について堂々と語る方法」が必要になるのだ。面接では、学生たちが25%しか読んでいない本の魅力をあれこれアピールしていることになる。なんと馬鹿げたことだ……