研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「本音を言わずに嘘をつく」自分のヤダみを描いた小説

 夜、仕事を終えて駅から家に帰っている時、向かいからやってくる女性が、スマホを見ながら歩いていた。そしてもう片方の手で、傘を、腕に対して直角になるような角度で持っていたのだが、その腕を歩行に合わせて前後に振っていたため、傘が大胆にブンブン振り回されていた。

 傘の先端の軌跡をマッピングすると、その女性の身長ぐらいの直径がある円の弧を描くぐらい、大きいように見えた。いわゆる「傘の横持ち」に円運動を掛け合わせた、きわめておそろしい行為と化していた。危ないなと。

傘の「横持ち」をしている人に直撃してわかった その意外な「理由」と気づいていない「危険」 | AERA dot. (アエラドット)

 まあ、夜の住宅街なので、人にぶつかる危険はそんなにないのかもしれない。とはいえ人が皆無というわけではない。僕がその女性と居合わせた時、駅から住宅街に歩いていく人は僕以外にも数名いた。

 さらにその女性は、僕とすれ違う際も、傘をブンブン振って歩いていた。腕振りのリズムを変えずに。もう片方の手で持ったスマホを見ながら。

 傘がぶつかってしまうかも、とか思わないのだろうか。

 自分はスマホを見ながら傘をブンブン振って歩いているけど問題ないだろう、と思える心のからっぽさは、生きやすいかもな、と思わなくもない。自分の肩から傘の先端までを半径とする球のなかに通行人は入ってこないだろう、という楽観。自分の世界が絶対的に不可侵であるという確信が、その歩きぶりから感じられた。すごく自信に満ちている。

 僕は歩きスマホをせざるを得ない状況では、だれか通行人に対して迷惑にならないだろうか、とびくびくして、わりと周囲をキョロキョロしながら歩きがちなので、そんな女性の歩き方にある種の尊敬を覚えた(9割皮肉です)。

本音を言うか、言葉を丸めて場を収めるか

 高瀬隼子『いい子のあくび』は、通行人を避けようともしない迷惑な「歩きスマホ」歩行者に対し、「こちらも避けない」=「ぶつかりにいく」という行動をとる女性が主人公の小説だ。

 スマホに夢中で周囲のことを気にしない人に対して、「ぶつかる」という具体的行動を通して意思表示する。「避けるのはこっちじゃなくてそっちだよ」的な、当然のように配慮を押し付けてくる傲慢な相手に対する意趣返しですよね。

 むかし、脚本家の三谷幸喜が「傘の横持ち」をする人に対して、わざとぶつかりに行って「いたっ」と声を出したりするかも、とテレビで言っていた。「あなたの持ち方はひじょうに危険ですよ」というメッセージを発するためにぶつかるわけだ。相手に、「この持ち方をした結果、道ですれ違った人を傷つけてしまった」というトラウマを植え付けることができたら成功だろう。

『いい子のあくび』では、そういうふうに、本音を口で伝えることなく、行為で伝えることを続けた結果、最後は……という展開になっていておもしろかった。

 自分の感じたことをそのまま言葉にするのは難しい。

 同著者の最新作『うるさいこの音のぜんぶ』は、ゲームセンターで働きながら小説を書く主人公が、賞を取ったことで職場の人に小説家であることが露呈する、というストーリーだ。

 同僚や上司からの好奇の質問に対し、思ったことをそのまま言うと鼻につくと思われそうだから、考えていることの一側面だけを切り取ったり、適度に加工したりして、人間関係の摩擦を減らす。

 次第に主人公は、自分を取り繕うあまり嘘を混ぜて会話をするようになる。そして嘘をついた自分を責める。その思考の過程が執拗に描かれるのがおもしろいし、いやらしい。あなたもこんなふうに、場を収めることを優先して気持ちを「丸める」ことがあるでしょう、と指摘されたようなヤダみがある。

 本に併録されている短編「明日、ここは静か」では、そんな主人公の自罰的な姿勢に変化を促す、ある出来事が描かれる。作家にとって真実とはなにか。嘘を語るのが作家に求められる仕事なのだとすれば、なぜ現実世界では嘘を言ってはいけないのか。

 正直に話すのがいい、とみんな言うけれど、それで人間関係が保たれるとは思えない……なんとなく、そういうジレンマって女性は多いんだろうなーと思う。自己主張するよりも、同調することで関係を良好に維持することを優先せざるをえない、のだが、そんなふうに簡単に折れてしまう自分を嫌悪してしまう。

 どうなんですかね? 僕は、自分の思ったことを言った結果、人間関係が良好に保たれないということにもわりと慣れてしまった。かなしい。