研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

環境か、努力か

12月18日(土)。朝、8時ぐらいに目覚める。体がそういうふうにねじを巻かれている。でも活動したくないので、布団の中でスマホをいじったりする。窓から差し込む朝日がまぶしいのでカーテンをしっかり閉める。9時ごろ、服を着たり顔を洗ったり歯を磨いたりして、糖質オフのフルグラを食べながら洗濯機を回す。洗濯物を干しながらポッドキャストを聞く。で、スマホで映画を見る。昨日の晩の続き。退屈な邦画だ。

最近買ったコートを着て家を出、JRに乗り、kindleペーパーホワイトで『ノルウェイの森』を読む。最近読み返している。高円寺で降りて、南のアーケードの先を歩いた。古着屋が集まっているおしゃれな通りだ。高円寺にこんなところがあったんだ? 北のほうしか行ったことがなかったので驚いた。会社の後輩におすすめされた担々麺の店に入った。かなり辛いし、熱い。パクチーを追加したが、辛いのでパクチーの味はよくわからない。でもうまかった。ひき肉がごろごろしているのがよい。ライスに合う。鼻水が無限に出てきてポケットティッシュを半分消費した。さっきの古着屋ストリートにもどり、まっすぐ歩いていたら新高円寺駅に着いたので、引き返す。やはり洒落た道だ。歩いてるだけで楽しい。で、駅の北側に行って、有名な銭湯・小杉湯に入る。人が多すぎて窮屈だった。人気がありすぎるのも考えものかもしれない。でも名物のミルク風呂はよかった。肌が潤っているような気がする。

中央線で荻窪に行った。荻窪は夏に友人の舞台を見に行った。その後行くことはなかった。ドトールでカフェラテのSサイズを飲んだ。舌に残る甘さ。大学時代、深夜に家の近所のジョナサンでドリンクバーを注文し、煙草を吸いながら村上春樹を読んでいたーーそのときのカフェラテを思い出した。で、時間になったので弟が参加している公演会場に行った。合唱。いいものを見た。

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しかしこういう芸術とか文化的なものに良さを感じるのって何がきっかけなんだろうね。たとえば小学生の時って桜の花見とかまったく興味なかったように思うのだが、いつそれをよいものだと思うようになったのだろう。花見はわりと誰でも好きになるものの一つかもしれないけど、たとえばミュージカルとかアートとかはどうなのだろう。その良さを認識するきっかけがある人とない人があるように思う。アートは教養として多少は見とかなアカンという抑圧で見ているけど、ミュージカルは見るきっかけがない。そういうのを見てる人は育った環境が良いんだろうなあとか思ってしまう。

他方、最近はその「私は育ちがよくないんで良さがわからないんですよ」的姿勢もあまりよくないのかなと思うことがある。ぼくはこれまでそういうふうにあなたと私は違うんですわ、とかなり一方的に分断線を引くことがよくあった。だがもしかしたら相手の人だって、大学時代に一般教養の授業で会った先生がすごく面白そうにミュージカルを紹介するからそれをきっかけに見るようになったとか、始まりはごくささいなものだったのかもしれない。うーんでもまあ結局はそういう先生の小話に関心をもってミュージカルを実際に見るという行動に移すのは、ある種の「良い教育」を受けているからこその好奇心+行動力とも言えるのかも…難しいけど、なんというか、環境と努力は当然ゼロヒャクではなく、割合の問題なので、もちろん「すべては努力すればできるようになる」とは言いたくないし言えないとは思うのだが、しかしかといって「どうせ環境で大勢が決まるんだろ?」と言い訳して自分の今いる状況を温存するのが誠実な態度とも思わない。今年ハーバード大に行った人が言っていたのだが、そんなに恵まれてない環境のなかで自分の力で情報を集め努力した人がアメリカでは評価されるのだと。それは誇っていいんじゃないか、と思った。これ、話まとまってるのかな。(1585字)