僕は高校時代はエンタメジャンキーで、
「小説は娯楽以外認めない。文学とか、読み手の読解を要するやつはクソ」
っていう態度を取っていたんですけど、高3になったあたりから、考えを改めてきました。
割と楽しいんですよね、作品のテーマとかをいろいろ考えるのって。
ただ、その時に、「そんなこと作者は意図してないだろ。深読み乙」って批判する人がいるんですけど、これ、ほんとに止めたほうがいいと思います。
僕は趣味で小説を書いてますけど、読んだ人が、僕の意図と違った解釈を持ったときは、素直に「ああなるほどねえ……」と感心します。
それは、自分の作品が親の手を離れて変化しているってことで、なかなか、作者にとっても面白いことなんですよね。まあ、物語を書く人のみんながみんなそう考えている、とは思わないですけど。
そういう、「生き物みたいな物語」の楽しみ方も、あっていいんじゃないかなと思いました。で、つまるところ、その「生き物みたいな物語」が純文学と言われるジャンルなのではないかと。
ここで、「純文学は読み手に想像と解釈の余地を与えている。そこが高尚で、単なるストーリーをなぞった文芸よりも優れているのである」と主張しているわけではないことに、注意してください。僕は多様性の話をしているんです。重要なのは、エンタメと純文の両者に楽しみ方がある、ということです。
エンタメ小説として書かれた作品を観賞していて楽しいのは当たり前ですけど、そこに純文的な楽しみ方を見出すのも、また一興です。僕はけいおん! は可愛い女子高生たちの優しい世界を描いたゆるーいアニメだと思っていたんですけど、あれに深いテーマを見出す人とか、いるんですよね。あれは結構カルチャーショックでした。どんな作品でも観賞後に考察を深めることで、楽しむことができるんだ、と。
ま、楽しもうと思えばなんでも楽しめるってことですかね。それは逆に言えば、一読してつまらないと思えばそれは絶対に面白くならないってことですね。
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