10年前、広島県出身の祖父に、原爆が落とされた日の話を聞きました。祖父は当時13歳でした。中学校に向かう汽車の中で閃光を目撃したといいます。
メモをもとに、編集して再掲します。
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祖父の自宅は大きな畑と山林を持っていて、小作農を雇っていた。
8月6日の8時15分、中学校に向かう汽車に乗っていたところ、山脈の向こう側(広島市)で何かがピカッと光ったのを目撃。「雷か何か?」と思っていたらしい。
祖父が通っていた中学校に、当時有名だった俳優が来ていた。映画のロケ地に使われていたらしい。その俳優とピンポン(卓球)をやったことを、祖父は覚えている。
「ピカッと光った」ものの正体を知ったのは、中学からの下校中だった。駅に行くと、汽車から、なにやら焼けただれた鉄兜を被った人たちが下車してきた。
「映画の撮影か何か?」と祖父が尋ねると、その人は「馬鹿モン、広島のことを知らんのか!」と言った。そこで広島市に原爆が落ちたことを知ったという。
祖父は爆心地からは汽車で1時間ほどかかるところに住んでいた。田舎で爆弾が落とされることはなかったが、飛行機が機銃で攻撃してくることはあったらしい。わりと金持ちの家だったという。家は広く、たまに軍人に飯を出して寝泊りさせたりもしていた。
6日の原爆投下以来、「青年団」という、被害処理をする男たちが広島市に向かったが、彼らは何日たっても帰ってこなかったという。放射線に汚染されたのか、と祖父は当時を振り返る。
広島市の悲惨な状況を知ったのは、戦争が終わってからだという。新聞は、日本が不利な状況に陥ったことは書かなかった。軍の「大本営発表」にあったことしか記事に出来なかった。
同様の理由で、9日の長崎原爆投下のことも、戦後に知ったらしい。
祖父の家に泊まった軍人のなかに、支那(当時は中国のことをそう呼んでいた、と祖父は注釈した)に行った経験のある若い軍人がいた。彼が祖父の父親と話をしていたのを、祖父は聞いていた。軍人は、中国人に穴を掘らせ、そのあと中国人の首を切って蹴とばし、埋めていたらしい。そのとき首を切りきってしまうのではなく、首の皮を1枚たけ残すのだという。そのような行為は、戦争でたくさん敵を殺した、その報酬として与えられた権利なのだそうだ。その話を聞き、祖父は「そんなことして何の意味があるのか」と疑問に思っていたという。
祖父は戦争自体に疑問を感じていた。だがそんなことを家族や友達と話すわけにはいかなかった。学校でも戦争は正しいと教えられていたし、もし戦争を否定的に捉えていると思われる発言をすると、特高警察に捕まってしまうからだ。
8月15日、終戦の日。玉音放送が流れた時間帯に、祖父は教室で「軍人勅諭」を書いていた。宿題だったのだがやっていなくて、体育の授業をさぼって書いていた。「同じことを何回も何回も書かなくちゃいけなかった」という。そんなとき、担任の先生が教室に入ってきた。「もう書く必要はない」。どういうことだ、と聞くと、戦争は終わったという。
内心ホッとしていたが、祖父はその気持ちを口にはしなかった。
家に帰ると、灯火管制のために電灯に被せていた黒いカバーを外した。本当は家の中ってこんなに明るかったのか……と驚いた。
翌日、学校では通常通り授業が行われた。戦争終結についての話は誰もしなかった。先生もそれについては一切触れなかった。戦争を賛美するようなことは言わなくなった。
だれもが、内心では終戦を喜んでいたのだろう――祖父はそう思った。
学校には、以前から傲慢な教師がいたのだが、8月15日を境にすっかり気が弱くなってしまった。生徒たちは今までの仕返しに教師をいじめようとしたが、祖父は参加しなかった。
祖父の家族は女性が多く、アメリカ兵が近くの国道をジープで走ってくるときなどはかなり恐れていた。乱暴されるのではないか、という噂が立っていたからだ。だが、べつに何事もなかった。
マッカーサーの来日後は農地改革が行われ、祖父の家は戦時中よりも苦しくなってしまった。祖父の祖母が神社の出身で、着物を多く持っていたため、それを売って食料を調達していたらしい。
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いま思えば祖父が広島の何市に住んでいたのかとか、「家が広い」ってどのぐらい広いのかとか、そういうところを聞けてない。学校の友達とはどんな話をしたのかとか、家族はどうだったとか、もう少し質問すべきことはあったと思う。
でも貴重な話だった。10年前、僕は大学1年生だった。祖父とは幼少期はよく遊んでいたけれど、中学、高校になってからは全く話していなかった。大学に入り、何か文章を書くことに目覚め、とりあえず近くの人にインタビューして書いたのが10年前のブログだった。それから2、3年後に祖父は癌で亡くなった。
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