研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「新しい文体」への旅

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何を書くか決まっていないのですが、とりあえず書き始めてみます。このような見出しにしたのには理由があります。新しい語り方、新しい文体を模索しようと思ったからです。僕はブログでは、また中学時代から断続的に書いてきた日記では、基本的に常体、いわゆる「だ、である」で文章を書いてきました。

当ブログには「とりとめのない思考を無理に言語化した記録」というサブタイトルがついています。ゆえに文章もとりとめのない、人様にお見せすることを前提としない文体で書いていることを自覚しています。

けれども一方で、社会人になってから、人様にお見せすることを前提とした文章を書く機会は飛躍的に増加しました。それはビジネスメールや企画書を日々したためていることに起因しています。ところでメールというのは基本的に敬体、すなわち「です、ます」で書くものです。そこで気づいたのですが、僕はもしかすると、社会人になってから、常体よりも敬体で文章を書くことのほうが多くなっているのではないでしょうか。ゆえにここで仮説を打ち立てたいと思います:僕はいまや、学生時代に比べて、敬体で文章を書く能力が一定程度向上しているのではないでしょうか。

……いま、ここから400字ぐらい書いたのですが、違うなと思い消しました。で、何の話でしたっけ。そうそう、敬体で書きたいという話でした。それを新しい文体と定義し、今後のエントリで模索していきたいと考えているわけです。

ところで僕は学生時代から趣味で小説を書いているので、文体にはちょっとこだわりがあります。ここは漢字じゃなくてひらがなに「開く」とか、そういう細かい美学的執着のようなものです。まあ、ブログを書くときはそれもあまり気にしないのですが……

で、そうですね、いまちょっと思ったのは、文体を模索するにあたり参照点にできるかなと思った書籍があります。東浩紀『セカイからもっと近くに』という本です。SFやライトノベルの批評の本なのですが、敬体で書かれています。本のまえがきだったか、何かのインタビューだったかうろ覚えなのですが、著者はこの本を敬体で書くことに強い意図を込めたと語っています。そもそも敬体で書かれる批評というのはかなりめずらしいですが、なぜ敬体なのか。それは、世の中に流通する文章が徐々に常体から敬体になっているという実感があるから、というようなことを言っていたと記憶しています。なるほどと。確かに敬体の本は増えています。この本を読んだ2014年ごろ、僕はすこしビジネス書や自己啓発書を読んだりしていたのですが、この分野はけっこう敬体で書かれることが多く、それゆえ多くの読者を獲得しているのではないか、という読みを当時の僕はしていました。つまり敬体の文章は読みやすいわけです。

しかし振り返ってみれば、敬体の文を書くという機会は、仕事以外ではなかなかありません。メールか企画書ぐらいかもしれません。ただ一方で、これは社会人あるあるですが、ちょっと込み入った、下手すると相手を怒らせるかもしれないから表現に細心の注意を払う必要がある「難しいメール」の返信を書くことがありますよね。そのようなメールを書くとき、すごく鍛えられているなあと感じることがあります。いままでの人生で使っていない脳みその部位が稼働している感じです。自分の意図を伝えつつ、相手を不快にさせない、なおかつ長文にならないよう最小文字数に削いだ文章を作っている時、ある種の心地よい疲労感を覚えることがあります。

そんな経験の蓄積を生かし、とりとめのない思考をあたう限りしなやかに言語化した記録を残していければと考えています。(1497字)