研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

なぜ「、」を打つのか

人の文章を読んでいると、たまに「この人読点少ないな」と思うことがある。僕は文章を書く時に、わりと頻繁に読点を打つ。「〜が」で逆接するときはほぼ確実に打つし、文の塊を並列させるときにも打つ。何かが起きて、次に何かが起き、そしてこうなる、みたいな流れを書く時も打つ。意味の切れ目というか、文章構造をブロックみたいに分解した時に、その継ぎ目に読点があるとスッキリするんだと思う。

でもいちいち点を打っていると、後で読み返した時に「リズム悪いな」と思うことがある。だから読み返して読点をバックスペースキーで消す、みたいなことをよくやる。読点を打たなくたって意味の切れ目は分かる。ちゃんと読めば分かる。

読点をあまり打たない文章を読むと、読み手への信頼があるんだなと思う。この文章を読むあなたなら読点がなくてもちゃんと読めるでしょ、と。「託し」感というか。逆にいえば、読点をちゃんと打つ人は読者を信頼してないのかもしれない。いや違うな…さっきも言ったように、読点は意味の切れ目を意味しており、ゆえにそれがあることによって読みやすくなる。ユニバーサルな文章になる。でもある種の人はそれを気にせず読点を打たずに書く。その執筆スタイルへの羨望がある。

読点をあまり打たない文章を見ると羨ましくなってしまう。僕もこんなふうにスルスルと文章を書きたい。マックで、サイゼで、スタバで高校生がおしゃべりするときみたいに摩擦ゼロで言葉を出していきたい。でも手が勝手に、文の合間に読点を打ってしまう。結果、こういう文章になる。嘆かわしいことだ。

一体何が違うんだろう? 巷間言われる「おじさん構文」の特徴の一つに「読点が多い」ことが挙げられるという。僕の文章もいずれその構文になっていくことだろう。

読者への信頼ベースで書くということ。たとえば短歌。現代短歌は句跨りするけど、オーソドックスな短歌は57577のリズムがベースになっている。短歌を見た時に、「これ言葉の合間に1文字スペース空けてくれないかな、そうすれば57577のリズム取りやすいのに」と思ったことはないだろうか。でも短歌は基本的に31文字を読点ゼロでスッと書く。流すように書く。で、読者が頭の中で読点を打って57577のリズムで再生する。読者に読点を打たせる。読者が打つ点だから読点なのだ(!)

読点の少ない文章を見ると嫉妬してしまう。読者の読みやすさとかテンポとか考えずに自由に文字を書いている。その自由さに嫉妬してしまう。自動的に読点を打ってしまう不自由さから自分を解放したい。人は読点がなくても文章を読める。だから気にするな。

しかし思ったのだがこれはかなり日本語特有の現象ではないだろうか。たぶん世界で使われる多くの言語は単語と単語の間にスペースを入れているはずで、ゆえに意味の切れ目も理解しやすく、その特徴のせいで英語を理解するAIを作るのに比べて日本語を理解するAIを作るのは難しいみたいな話を聞いたことがある。スルスルと続く日本語に頭の中で読点を打つのは、人間だからこそできるわりに高度な作業なんでしょうね。