研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「受像機」の感度を高める

旅行とかになかなか行けないので、お家時間を楽しみましょうとよく言われている。旅行は刺激的だ。知らない世界を知ることができる。だがそれができないので、狭い世界で楽しみを見つけることが重要になる。自分の外部に楽しみを求めるのではなく、今まで素通りしてきた「身の周りにあるものの良さ」をレシーブしていくということ。

去年、東京国立近代美術館で「民藝の100年」という展示を見た。民藝というのは、市井の人々が作った茶碗とか小物とか(美術品と区別して「下手もの」と呼ばれた)に美を見出し積極的に評価する運動のこと。無名の鍛冶屋がつくった皿を見て「これけっこう良くね?」みたいに思った柳宗悦という男が、評論を書いて同人誌まで作った。すごい情熱だと思うと同時に、暇だったのか? と思わなくもない。

旅行とかに行けなかったり、あんまり刺激的なイベントがない日々が続くと、身近にあるものに良さを見出したくなるんだろう。ライムスターの宇多丸が以前ラジオで言ってた「てめえという受像機問題」を思い出す。「どれだけお金を積んでも料理の美味しさには限界がある。積めば積むほど美味しくなるわけではない。結局は食べる側の認識を変える、てめえという受像機の感度を高めるしかない。アメリカのセレブがドラッグとかやっちゃうのは、たぶん、より刺激的なものを欲しながら、しかし受像機の感度を上げられなかったからなのでは…」。首肯。

吉本ばなな「キッチン」を最近今更ながら読んだ。祖母の死というクライシスに直面した主人公のみかげが、料理したり洗濯したり同居人と喋ったりする話だった。要するに、普段の生活を丁寧に描いている。生活というか、より正確に言えば、家事。家から出て冒険に出たりはしない。辛い出来事に心が引きずられそうななかで、メトロノームみたいに普段どおりのルーティンをこなすことで精神を調律していく。

ちょうど同時期に村上春樹の「ノルウェイの森」を読み返していたのだが、彼女を失った主人公のワタナベが一ヶ月ぐらい一人旅に出て港で酒を飲んだりして帰還する、というシーンがある。クライシスに対して、喪に服するセレモニーがある。喪失を埋めるために、そういうものが必要とされている。そこらへんに吉本ばななとの違いがあるなと思った。つまり、自分で立ち直るか、外部に救いを求めるか。

人生で一番好きな漫画「バクマン。」で、2人の主人公のうち漫画原作を担当するシュージンがこういう話をしているシーンのことをずっと覚えている。「なんかさー、高校生が普通に朝起きて飯食って学校行って…っていうのをただ描くだけで面白い漫画があったらそれって最強じゃね?」。作画担当のサイコーは「何いってんだよ」みたいな反応をしていた。僕もこのシーンを読んだ当時は意味がわからなかったが、今はわかる。だが、実際にただの日常を書き留めて面白くなるというのはシュージンが言うようにかなり高度なことだとも思う。それができればいいんだけど、なかなか難しい。

引越して3週間が経った。家具も揃ってきて、部屋のなかはだいぶ整った。前の部屋より居間も広いし、キッチンも広いし、バストイレ別できれい。だが駅歩遠いし家の周りにしゃれたお店とかまったくないし、駅まで行っても大したお店はない。なんというか、GDPが低い。でもここで生きていかねばならない。

この三連休、毎日錦糸町に行った。スタバもサーティワンも無印も本屋も映画館もある。それと比べてしまえばこの街にはなんもない。というか、前住んでた五反田が何もかもありすぎたんだわ。刺激の多い街だった。外部に甘えてた。そういうわけでこの町で僕には、自分という受像機の感度を高めて楽しみを見出していくことが求められている。

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