研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

つらつら語る : 雑談に入れない/母のこと

シャワーを浴びている時にふと、「自分はあまりにも人とかかわりを持たなさすぎじゃないか?」と思うことがある。社会人になってから新しい友達は1人もできていない。学生時代の友人とも、半年に1年に1回誘われて飲むぐらい。一緒に昼間に買い物に行くとか映画を見に行くということもない。LINEで雑談とか、日常の出来事を共有するなんてしたこともない。

学生時代からそうだった。友達、のようなものはいた。でもこちらから積極的に関係性を築こうという働きかけを一切しなかった。仲良くしようとして拒否されたら傷つくからだ。べつにそういう経験があったわけでもない。なのにひどく、拒否されるのを恐れていた。むしろこちら側が、仲良くしようとしてくれる相手を拒否することで、それでもこちらに仲良くしようとしてくれるかどうかを試したりしていた。ほんとうに幼稚だ。

会社でも、人が雑談しているときに会話に入っていったり、朝職場に行った時に天気の話をしたりといったことができない。本当はしたいのだけど、話し方がわからない。飲み会など、ここはお話をする場ですよ、と定義されているならできるのだが、仕事をする場で雑談と仕事を行き来するのが難しい。

雑談に加わるのが難しいのは、大縄に入るのが難しいのと似ている。タイミングを測るのが難しい。もし自分が入っていって足を縄に引っ掛けてしまったら、縄の中にいる自分以外の全員に迷惑をかけてしまう。そんな不安がある。

最近いろんな人の話を聞いていると、みんな人間関係を大切にしているなと思う。例えば友達同士でおしゃべりしたり、友達の友達と飲み会をしたり、恋人とLINEをしたりしている。それによって日々の疲れを癒したり、新しい刺激を得たり、自分の存在意義を確認したりするのだと思う(たぶん)。で、僕はそういうことを全然していない。ゼロではないけれど、その機会が極端に少ない。

逆に言えば、そんな状況でよくサバイブできているなと思う。全ての苦しみ、つらさを一人で背負い、飲み干している。よくそれで生きていられるものだ。メンタルが強すぎる。会社でだって、辛さを分かち合う仲間があんまりいないわけでしょ。孤独に耐えながら生きている。耐える、というのも変だけど。自分から選んでいるわけだし。

でもどうして僕には友達がいないんだろう? いないわけではない。少なからずいる。でも、仲良くできない。仲を深めたり、関係を広げたりすることができない。仲良くなり方がわからない。

人と仲良くなって苦しみを分かち合い、負担を軽減するということがあまりにもできていない。あるいは人と話すことで、自分が相手にとって必要な存在だと認識し、自分を肯定するという体験があまりにも少ない。

親と仲のいい人というのがいる。父親と酒を飲みながら人生について話したりする、という話も聞いたことがある。僕に父はいない。母と話すことはあるが、基本的に母とは話が合わない。母は、僕からすると、すごく狭い見識で物を語ろうとする人に見える。自分の思い込みで僕の仕事の仕方に口を出したり、こちらの主張について誤った推論をしたり、過剰に世間を意識することで僕の行為を批判したりする。

僕が仕事に関する悩み事を少しでも吐露すると、母は「あなたは努力が足りない」と怒ったり、周りの同期に比べてうまく立ち振る舞えていないのではないかとヒステリックな不安を催したりする。それはもう、こちらがふっと息を吐いただけで荒波が立つような恐ろしい反応なのだ。僕がチェスの次の一手に少考する程度の悩みを打ち明けると、母は沈没寸前のタイタニック号の乗客のようにパニックを起こす。僕は顎に手を当てて盤上を見つめているだけなのだが、母の目には僕は、テレビの台風中継の、暴風のなか傘にしがみつくリポーターのように見えるらしい。

だから僕は母に悩み相談をしない。相手の感情のアップダウンが激しすぎて困憊してしまう。悩みが整理できて楽になるということもなければ、悩みが解決するなどということも当然ない。なぜ母はこんなに馬鹿なのだろうと嫌になり、疲れるだけだ。

それでも母は僕の会社での立ち振る舞いが気になるようで、会うたびに「ちゃんと仕事はできてるの?」と聞いてくる。まわりの人たちと同じようにアベレージの点数を出せているのか、みたいなことが気になっているのだろう。ようするに他者と比べて遅れていないかどうかが関心の焦点なのだ。

母から何かを誉められたり、自分の存在を肯定されたような体験は一つも思い出せない。母は僕をつねに他人と比べ、僕が他人より劣っていないかとヒステリックに不安になっている。そんなんだから一緒にいると疲れる。

これを解消するためには、僕が他人より優れているということを母に理解させてあげることがよいのだろう。しかし残念なことに僕は、自分が他人より優れていると確信するに足る根拠を持っていない。仮に持っていたとしても、母にそれをずらりと並べて「僕はみんなより優れているから安心して!」と主張するなんて馬鹿らしい。

マッチングアプリは細々とやっている。均せばひと月に一人ぐらいのペースで会っている。でも仲良くなれる人はいない。仲良くなれないな、と思うのならいいのだが、大抵の場合、もう少しこの人のことを知りたいからもう一度会いたいな、と思って打診して断られる。自分は誰からも必要とされてないんだ、とつらくなる(認知の歪み=「過度な一般化」)。

その一方で、逆に相手からのアプローチを断ったことも数回あるのだが、それはただただ申し訳ないという気持ちしかないし、この事実をもって「いや俺も必要とされているし!」と自己肯定に結びつけたくない。

別々の友人から、「〇〇くんの良さってじっくり付き合うと分かってくるんだよね」と言われたことがある。とても嬉しい。たぶんその3人の友人は、僕の物事をメタに深読みする癖とか、常識を疑う姿勢とか、そういうのを良さと言ってくれたのだと思う(自分の推理だけど)。でも裏を返せばそれは、僕の良さはすぐには人には伝わらないということだ。でも世の中にはすぐに良さが伝わる人、村上春樹的に言えば「感じの良い人」といのがたくさんいるわけで、そういう人よりも長じるところがまったく思いつかない。